歴史と人事:目次

◆ 飛鳥時代

日本最高の女性上司

◆ 平安時代

山椒大夫の労務管理(上)
山椒大夫の労務管理(下)
歴史を変えた大説得

◆ 鎌倉時代

源頼朝の人事術

◆ 室町・戦国時代

加藤嘉明の人事論
北条早雲の人事術
藤堂高虎の人事

◆ 江戸時代

今のところ最後の女性天皇
「権威」が吹き飛ぶとき
江戸時代のワークシェアリング
革命家と政治家
河井継之助の好色手帳
女遊びに奥さんを呼ぶ革命児
平凡ということ
”鬼平犯科帳”の世界
大愚の管理職是か否か?
テレビと幕末
松陰 in プリズン

◆ 明治・大正時代

昔の人事異動の苦労
日本一のリストラ名手
海戦にみる”中2階人事”
一石四鳥!政治家、後藤新平
西郷どんの人事論
学校の支配する国家
戦略と士気
100年後の人々のために
”反政府運動家”の素質
旧日本軍、士官の考え方
カタログデータというもの
俳人の後継者選び
「常紋トンネル」を読んで
倒幕戦争と日清戦争
危機の外務大臣

◆ 昭和・平成時代

いさかいをなくす方法
自民党に学ぶ組織維持ふけめし、つば汁、行水めし
恐るべし!戦時の労務管理
サイパン島と硫黄島
国を滅ぼした愛国者
東条英機は独裁者だったか?
乱暴者鎮圧か?官憲の横暴か?
「ヒゲの木村」の作戦術
「煙突男」の時代
政治家の人事
刑務所の脱獄と教育

◆ 外国

頼りにならない「同盟軍」
仕事を価値あるものにする方法
どの国からも完全独立。依存するな
まつりごとは事務ではないよ
ドイツ軍と連合軍
人材観の歴史と未来
ナポレオンと参謀本部
差別と軽蔑の哲学
「人間に価値があった」3,500年前
理想的な女性管理職
傭兵の作った社会

◆ その他

リーダーシップ論―偉人説
改革者の”末路”
西洋と日本、一番違うところ

山椒大夫の労務管理(上)

童話ですが、人身売買された家族再会のハッピーエンドの人情話です。その中には「山椒大夫」社長と「安寿と厨子王」従業員の興味深い労務管理手法が見え隠れします。

労務のハナシでは日本最古の「かぐや姫」に次ぐ古さではないでしょうか。関白藤原師実という実在の人物が出てきますから、900年ほど前のハナシになります。当時の「労務管理」とはどうだったでしょうか。

★『姉が言いつけられた三荷の潮も、弟が言いつけられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進を受けて、日の暮れまでに首尾よく調った。』

安寿と厨子王姉弟は、新潟で人買いにだまされて強制労働させられることになりました。14歳と12歳の新入社員でしたが、仕事の方法が分かりません。試用期間も研修もあったものではありません。しかし良いヒトがいて、OJTしてくれたのですね。

山椒大夫がOJTするようにと、言い含めていて、「教導手当」を出していれば別ですが、そういうものはないようです。自然発生的にできた純粋な親切心からなるOJTが、新入社員を救ったのです。

★『 ある日の暮れに二人の子供は、いつものように父母のことを言っていた。それを二郎が通りかかって聞いた。二郎は邸を見廻って、強い奴が弱い奴を虐げたり、諍いをしたり、盗みをしたりするのを取り締まっているのである。』

この二郎氏は「山椒大夫株式会社」の人事部長のようなヒトです。こういうことは案外今の会社ではないような気がしますね。人事部長や営業課長という肩書きはあっても、こういうことはしません。

「取締役」とは案外こういうところを語源にしているのかも知れません。二郎氏は山椒大夫の息子ですから、権威はあります。取締役=権威=秩序の維持と考えれば、いわゆる会社の役員の役割が分かってきそうな気がします。

★『こら。お主たちは逃げる談合をしておるな。逃亡の企てをしたものには烙印をする。それがこの邸の掟じゃ。赤うなった鉄は熱いぞよ』

これは三郎氏の発言です。このヒトも「山椒大夫株式会社」の「取締役」ですが、二郎氏より荒っぽい取り締まりをします。まあ悪役ですが、そこは大作家森鴎外で、悪役だから悲運を辿った、と単純なストーリーにはなりません。

この「山椒大夫株式会社」首脳部は利益主義な山椒大夫社長と、荒っぽい三郎取締役、温和な二郎取締役でなっています。経営にあっては案外こういう構成がベストで、首脳部一人残らず聖人君子、もしくは悪党揃いでは事業として成り立たないような気がします。

(下に続きます)山椒大夫の労務管理(下)

山椒大夫の労務管理(下)

森鴎外の歴史小説、「山椒大夫」にまつわる当時の労務管理の話の続きです。

★『上も下も酒を飲んで、奴の小屋には諍いが起るだけである。常は諍いをすると、きびしく罰せられるのに、こういうときは奴頭が大目に見る。血を流しても知らぬ顔をしていることがある。どうかすると、殺されたものがあっても構わぬのである。』

お正月の話です。これはガス抜きですね。労働のストレスが貯まってそれが一揆になって社長に向かわないようにと、見て見ぬフリをする掟破りです。明文化されないインフォーマルなルールと言えましょう。

酒が入ってですら争いをしてはならないとしたら、内で爆発しないストレスは外へ向けられることを山椒大夫は知っていたのかも知れません。その怖さに比べれば貴重な労働力が1つや2つ失われてもしょうがない、そう考えたのでしょう。

★『そんなら垣衣を大童にして山へやれとおっしゃった。大夫様は、よい思いつきじゃとお笑いなされた。そこでわしはお前さんの髪をもろうて往かねばならぬ』

これはいわゆる「主任」の発言です。垣衣と書いて「しのぶぐさ」と読みます。名を名乗らない姉の安寿に山椒大夫が付けた名です。大童とはショートヘアのことでしょう。安寿は厨子王の逃亡の手助けをするために、海の潮汲みから山の柴刈りへの配置転換を願い出たのです。

異例の願い出だったと見えて、「主任」は対価を要求したのです。当時の女性は百人一首の絵など見るように、14歳でも髪が長かったのでしょう。しかも「髪は女の命」のようなものだったと思います。現在でも配転を願い出るのは勇気が要りますが、当時でもそうだったのでしょう。

山椒大夫が笑ったのは、配転を願い出た従業員への「許可の手数料」を取れたことに対する満足感だったのかも知れません。

★『金で買った婢をあの人たちは殺しはしません。多分お前がいなくなったら、わたしを二人前働かせようとするでしょう。』

いよいよ厨子王を逃亡させようとする安寿の決死の策の告白です。じゃあ姉さんはどうするのか。ヒデエ目に遭うよと厨子王が聞いた安寿の答えです。

まあ逃亡の企てで焼きごてを当てるくらいですから、半殺しくらいの目には遭うでしょうね。正に目的のためには手段を選ばずに、安寿は身を犠牲にして目的を達しようとしたのです。今では強制労働の禁止など、法にはうたってありますが、今のヒトでも追い詰められれば、決死行に出ないとも限りません。

★『丹後一国で人の売り買いを禁じた。そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠の業も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。』

結局話はハッピーエンドに終わり、厨子王は奴隷だったのがトップになり、善政を敷きます。しかし奴隷よりは、収入を保証された労働者を使うほうが、能率が良いということです。一時は損失に思ったようなことが、案外長期的に大きな利益を生むということを鴎外は言いたかったのでしょう。

鴎外は決して資本家=搾取=悪という図式でものを見ていません。過酷な労働はどの時代でも同じですが、ごく稀にある善人との出会いと、その間を埋める信心が大事だよと教えています。
(完)

頼りにならない「同盟軍」

頼りにならない「同盟軍」
城濮の戦い(紀元前632年)
スターリングラードの戦い(紀元後1942年)

この両者、2,500年以上の開きがあり、戦う相手も戦争の質も違っていますが、勝敗の原因に共通するところがあります。

城濮の戦い
楚・陳・蔡の連合軍 VS 晋・秦・斉の連合軍

スターリングラードの戦い
ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー軍 VS ソ連軍

左側が敗者ですが、両方の共通点は、弱体な「同盟軍」を持っていたことです。右側の勝者は、この弱体な同盟軍を突いて戦いを勝利に導きました。
この弱体な同盟軍とは、

確かに一国ではあるが、本体と比べると似ても似つかないほど弱い国だった、ということです。彼らも確かに軍隊としてはありましたが、なぜそこから突破されたかというと、戦争の「当事者意識」が足りなかったせいだと思うのです。

城濮の戦いの陳・蔡という国は、今で言うなら小さい町ぐらいの都市国家でした。当時の中国は春秋・戦国時代で、強国とそうでない国の格差が広がりつつありました。また、スターリングラードの戦いのルーマニア、イタリア、ハンガリー軍は、当時のドイツに「世話になった」国家で、なぜソ連へ攻めに行かねばならないのか、自分たちの国益にはならないことを知っていました。

彼らにしてみれば、戦争でどちらが勝っても良いのです。要は自分さえ保全できればいいのです。しかしそういう国を率いると、勝ちのときは良いけれども、辛抱が必要になるとすぐ崩れます。攻めの体制の一部を任すのでなく、彼らは友軍とした方が良いのです。

要は、人間でも組むなら対等の立場が良いということです。「当事者意識」は人間の力を10倍にもするのです。人を使う際にもこれは言えるでしょう。力あるボスの下の子分では、弱点になりこそすれ、先鋒にはなりません。パートナー同士でどう戦うかというのが、特に今後、重要な人間関係になってくるでしょう。

昔の人事異動の苦労

永沼秀文という名の騎兵将校のハナシです。騎兵とは馬に乗って迅速に動く、戦車登場以前の機動兵器を扱う兵種です。いわゆる「馬乗りの身分」とは違う、馬を機動力とした近代戦の構築を日本が始めた、明治28年のお話です。

彼は大尉(結構上級の士官)になって、騎兵中隊長に赴任しました。彼はそれまでは官庁の事務職が長く、実際の軍事を司る司令官は荷が重かったようです。デスクワークからいきなり野戦指揮官になって、兵士に命令を下して動かし、軍事目的を達成する任務になったのです。

演習といえども、生身の人間を動かすのは、書類仕事と違ってホネが折れたでしょう。厳しい戦術訓練に即応できず、大隊長(上官)の秋山好古中佐には散々叱責されたようです。

しかも「不動の姿勢がなっとらん!」などと、軍人の初歩レベルで衆目の前で叱責されたりしたそうです。そこに追い討ちを掛けるように、指揮の不手際で部下に負傷させてしまいました。

当時のサムライは責任感が強いです。永沼大尉は自決するつもりで上司のもとを訪ねました。

秋山中佐は永沼大尉の報告を聞き終わると、このように言ったそうです。
「人間として、ことに軍人は、常に腹を切るだけの覚悟は持っていなければいけんよ」
「しかし実際に腹を切ってしまっては、実も花もなくなる。そこをじっと忍耐する。そうした極致を何度も繰り返していくとき、人間は修養も向上もできるのだ」
「おまいも軍人なら命を惜しめ。命は1つじゃ。そこを忘れてはいけんぞな」
「わしが淹れた茶を飲んでいかんか。茶を飲んだら中隊へ戻って指揮を執るんじゃ。ええな。」(秋山好古は伊予松山のヒト。「~ぞな」は松山弁)

永沼大尉は自決を思いとどまったそうです。彼はその後大いに騎兵の専門家として成長しました。10年後の日露戦争で、「永沼挺身隊」は騎兵の本領を発揮して、素早く敵陣深く活動して勇名を馳せ、鉄道爆破や補給拠点の襲撃をもってロシア軍の後方を脅かし、日本軍の勝利に重大な貢献をしました。

この説得で重要なのは、
1、責任は重いということ。
2、しかし、取り返しの付かない取り方はしない。
3、修養と向上が第一である。
ということを教えた点です。

「自決するな」という直接的な命令でなく、また本人の分かっている罪科には一言も触れないところは、モノの言い方として学ぶべきところです。

時代の移り変わりが激しく、新しい仕事に転じることの多い社員にとっては失敗もつき物でしょう。失敗をさせないためにはどう教えればよいか、特に中途採用の人間を教えるにはどうすればよいか、考えさせられるエピソードです。

今のところ最後の女性天皇

日本の歴史上、女性のトップは多々存在し、天皇にもいました。史上最初の女性天皇、推古天皇は日本最高の女性上司だと私は思いますが、最後の女性天皇も歴史に隠れた傑物だったようです。

後桜町天皇のことです。江戸時代のほぼ真ん中に生きた方で、先代の男性天皇が若死にしたため、ワンポイントリリーフとして登板した天皇といわれています。当時でも119年振りの女帝誕生です。しかしこの女性、本当に「つなぎ」のヒトだったのでしょうか。

22歳で即位し、31歳で幼かった先代天皇の皇子に譲位し、「上皇」となりました。しかしこの即位した皇子(後桃園天皇)も若死にし、傍系の男性天皇(光格天皇)になりました。この天皇は幕府に圧しつぶされていた朝廷の権威を復興しようとした人物だったのです。光格天皇の死後27年で明治維新になりましたが、そのパワーの源、尊王論の下地にはこの「やる気のある天皇」の努力がありました。

この光格天皇の教育をしたと言われているのが、彼が9歳で即位してから42歳まで生きていた後桜町上皇だったのです。

彼女は非常に学問好きな女性でした。73年の生涯のうちに作った和歌1600首あまりと20年以上にわたる日記が残されています。

彼女が21歳で即位する5年前、江戸幕府によるはじめての勤王論の弾圧事件がありました。宝暦事件といって、日本書紀などに基づく勤王論を説いていた神道家の竹内式部が弾圧された事件です。彼は若手公卿に非常に高い支持を得ており、後桜町天皇の先代天皇自身に講義したこともあったといいます。

そして彼女の即位後、1766年には第2の勤王派弾圧事件である明和事件が起き、尊王的な歴史を説いていた山県大弐・藤井右門らが処刑されています。思想くらいで残酷なようですが当然でしょう。当時は幕府権力絶対でした。

こういう事件が当時、10代後半~20代の学問好きな女性の思想に影響を与えなかったとはいい切れないでしょう。譲位後、彼女は次の天皇、また次の天皇と熱心に教育をしました。

江戸幕府は「天皇・公家は学問だけしていれば良い」としましたが、その学問に尊王論も含まれていたのです。それが光格天皇の天皇家建て直しにつながり、幕末の尊王・攘夷運動のパワーとなって時代を旋回したのです。

最初の女性天皇たる推古天皇のように、決して自分自身の事績は出さないが、裏でちゃんとコツコツと能力を発揮する、そんな感じの女性が、遠回しに時代を作るもとになった、とは大げさでしょうか。

自民党に学ぶ組織維持

「私は一大決心をした!!」
昭和56年夏、自民党の政府与党首脳会議の席、当時の鈴木善幸首相の発言です。

二階堂進自民党幹事長、安倍晋太郎政調会長、中曽根康弘行政管理庁長官、宮沢喜一官房長官、河本敏夫経済企画庁長官など、次期首相を窺う当時の実力者、荒武者連中の揃った席での発言です。突然立ち上がって、コブシを振り上げて以上のような発言をしました。

雰囲気がピーンと静まり返ります。すわ内閣改造か?はたまた辞任発言か?

続く言葉は「この夏は十分休暇を取る決心をしたよ!」というものでした。これで一気に緊張がほぐれ、一同笑いに包まれました。

これは首相の冗談ということもあったのですが、去年の夏、大平元首相が過労で倒れたということから、「休暇?いいんじゃないの」という空気があったことも大きかったのです。

鈴木政権は、自民党の実力者連の権力闘争の結果、生まれた政権でしたが、大平元首相の死以来、ストレスを貯めまい、人を殺すような闘争はすまいという空気が支配したコトは確かです。

その結果、自民党はどうなったかというと、

抗争はやめよう、ということから挙党体制の道を歩みました。鈴木政権の後、中曽根、竹下、宇野、海部、宮沢といった政権はいずれも争いらしいものはなく、実力者の指名で決まりました。

宮沢元首相の後、小沢一郎現民主党代表の仕掛けで自民党は政権から外れましたが、党内抗争は起こらず、「加藤の乱」もあっという間に腰砕け。小泉内閣が5年以上続くことになったのも、挙党体制の名のもとの融和からです。彼に対抗する勢力はすっかり弱体化し、今、ポスト小泉に挙げられているのは「無難な」人です。

確かに組織内一丸となって、は組織の長命化につながりますが、一番の欠点は「実力者が育ちにくい」ということでしょう。ドロドロの権力闘争を勝ち抜いた三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の各首相はそう簡単には折れないタフな一面を備えていました。彼らはその前時代、池田勇人、佐藤栄作の時代に散々「闘争」してきたからなのです。

この「タフな一面」は学校へ通ったり、温室育ちではなかなか身に付きません。もし磐石の小泉自民党体制が崩れるとするならば、この辺りが、民主党の政権奪還の「付け入りどころ」のような気がするのです。

死者も出るような厳しい環境は英雄を作りますし、しかし組織を持続させるにはぬるま湯のような息抜きも必要です。それをうまく組み合わせて結党以来50年を閲してきた自民党の組織には学ぶものも多いです。

いさかいをなくす方法

ここに一本の柿の木があったとします。村のさる古老の持ち物です。その木に秋にはたくさんの柿の実がなります。それを村のワルボウズどもが盗みに来ます。古老は怒って、「このガキどもめ!」と追い回します。

それを毎年見て、心を痛める5歳の子どもがいました。そういうイザコザを解決するために、彼はどういう手段をとったでしょうか。悪いのは柿を盗むガキどもか、小さいことでいちいち怒る古老か、彼は随分悩みました。

彼はどういう行動に出たでしょうか。木を切り倒してしまったのです。つまり、「柿の木さえなければ争いごとはなくなる」という考えです。この子どもの父親は「もうこんなことはするな」と静かに言い、木を倒された古老も「5歳の子どもがここまで知恵が働くとは将来が楽しみでないか。」と笑い飛ばしてくれました。

私なら、こんな争いくらいなら放って置けばいいのにと思いますが、この小さい子どもの事件は後の日本に大きな影響を与えました。この子の名前は、

石原莞爾です。上記のことは明治時代の実話です。軍人で思想家。世界最終戦論という著書で、彼の死後60年近い現在の国際状況をある程度言い当てています。

満州事変を起こしたヒトで、侵略戦争の首魁として評判は悪いのですが、あれは侵略ではなく、上記のようなイザコザの解決法だったということでした。柿の木は中国、満州事変の結果できた満州国は木の切り株といったところでしょうか。

要は、争いごとがあるのなら、仲裁ということを考えず、その源を断ってしまえばいいという考えです。当時の中国は欧米列強のつかみ取り状態でした。欧米(古老)と日本(ガキども)が中国(柿の木)を巡って争うなら、中国を解体してしまえという論議です。その結果満州国ができました。

これは勿論歴史的に破綻しましたが、イザコザの仲裁には1つの考え方になると思います。例えば労使が賃金でもめるなら、賃金をどうという論議はやめて、福利厚生を立てるとか、休日や残業対策、さらに作業能率、社内組織まで切り込んではいかがかという提案につながることになります。

視点の転換ということですね。簡単なようですが、実際となると結構難しいものでもあるのです。ですからここに「仲裁者」ではなく「転換者」としての専門家が必要になるのです。

日本最高の女性上司

推古天皇のことです。外国ではこのヒトでしょうが、日本最初の女性天皇たる推古天皇もなかなかのものです。かの聖徳太子の親分に当たるヒトで、6世紀末~7世紀初めの人物ですから1,400年近く前の話になります。

39歳で帝位について以来、この方の元、大和政権は安定し、以後の国の元となる法制度や文化の発達がありました。彼女の功績は大きくあげると2つあります。

1、聖徳太子という有能な行政官に法制度を整えさせた。
2、蘇我馬子というワガママな有力者の手綱を見事にさばいた。

人材を見抜いて任せることができ、しかも荒馬をさばく女傑というものはそういるものではありません。しかもこのヒトの先代の天皇は、蘇我馬子に殺され、聖徳太子はたった19歳です。このヒトの性格は、

○ 頭脳明晰な人で、聖徳太子と蘇我馬子の勢力のバランスをとりました。
他の臣下の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図ったのです。若い太子を摂政として、十七条の憲法を初めとする、新しい制度づくりや遣隋使などの外交をやらせたのは、ガミガミいってのことではありません。「推古天皇はカイライだった」という説が後世出るほど、思い切って政策を任せるトップだったのです。

○ 重臣の蘇我馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がありませんでした。
こちらは逆に放任しておくとまずいタイプです。彼女の即位までは散々権力闘争で血なまぐさい争いをし、天皇までも倒してしまうほどのヒトでしたが、即位以後、随分カドが取れて、太子と共に「天皇記」「国記」などの歴史書を編纂しています。馬子は彼女にとって母方の叔父でしたが、彼が領地の無心をした際に、公の論理をもってしっかり断るなど、はっきりモノが言えたようです。

結果として飛鳥文化が花開き、その後の政治制度の元になる法律や外交も整いました。さらに寄り集まりだった大和政権は、豪族同士の争いも起こらず、初めて磐石の基盤をすえたのです。若き人材と、荒っぽい実力者を束ねるような人徳を持っていた女性だったのです。彼女の政権は36年も続いて、75歳で天寿を全うしました。

日本一のリストラ名手

山本権兵衛のことです。日清戦争前、彼は海軍大佐、海軍省大臣官房主事でした。要するに大臣の傘の下で権力を振るえる立場に立っていたのです。

明治25年の日本海軍は、大国清との戦いを控え、新しく変わらねばならない時期にきていました。明治初年の戊辰戦争や10年の西南戦争では海軍が大活躍しましたが、今度は外国へ出て行かなくてはなりません。当時は「薩摩の海軍」で、薩摩藩の藩閥が幅を利かせ、ムカシの戦争の「功臣」が重要な地位を占めていました。

これらの功臣は近代海軍の正規教育を受けていないという欠点がありました。新しい人の論理を抑え、国内戦争の経験に基づくカンで部下を率いていこうとしていたのです。彼らに引いてもらうためにはどうしたら良いか。彼らは山本主事が生死を共にした先輩や同僚たちです。山本主事も薩摩出身でした。共に国事に奔走した連帯感もありました。彼はどう説得したでしょうか。

以下、問答風に点描します。

○同じ薩摩人の同僚の首を切るのか!
■オレは薩摩人ではない。近代海軍の山本だ。

○ただで済むと思うなよ!
■斬るなら、この場でお前をたたっ斬る。

○倒幕戦争は薩摩の天下にするための幕府への復讐だ!
■違う!薩摩が他の国を支配し、威張るためではない!西洋列強に植民地にされないために人材を伸ばし、法を整備し、近代化し強い海軍を作らねばならないのだ。

○西郷どん(隆盛)は薩摩に殉じたぞ!
■その西郷どんが言った。「ついてこなくて良い。薩摩より大事な海軍のために勉強し、日本のためアジアのために働いてくれ」と。

○俺が悪かった。許してくれ!
■お前は要らない人間ではない。現役を退いただけだ。

これで納得したそうです。要諦は、
1、自分の立場を示す。
2、断固たる意思を示す。
3、会社の方向性と、本人の考えの違いを示す。
4、公論を筋道立てて説明する。
5、ちゃんと救済策も示す。
ということです。

1年後の日清戦争で兵力に劣る日本海軍は、優秀な人材から出た戦略と戦術で勝利を収めました。上記を見ても分かりますが、彼は決してクールにクビを宣告したわけではありません。その過程は大変人情深いのです。後に総理大臣を2度務め、80歳を超える天寿を全うした偉人のリストラは、このように合理的で、しかし西郷どんの思想のように「敬天愛人」(天を敬い、人を愛す)なのです。

ふけめし、つば汁、行水めし

これは戦前の用語で、しかも軍隊用語です。昔の日本海軍は、兵科、機関科、主計科など、職種によって分化していました。しかし大砲を撃つ兵科は花形、動かす機関科はやや下、経理と衣糧を受け持つ主計科はさらに下と、差別されていました。

主計科の経理は事務職ですからまだいいものの、衣糧は早い話が「めしたき兵」です。スマートな海軍のイメージではありませんね。無形の差別に基づく嫌がらせもあったでしょう。

その差別への仕返しが表題の「ふけめし、つば汁、行水めし」です。どういうものかというと、

ふけめし:飯を炊いてその釜(軍艦は数百人分だからスケールが違う)に、頭のフケをチリチリと入れる。
つば汁:これは味噌汁の話。つばを吐いて、それを出すこと。
行水めし:飯釜は、ヒトが入れるくらいの大きさです。そこに飯を入れ、当然水も入れます。その水だけ入れた段階で、夏場なら行水して体を洗い、特に陰部や肛門を念入りに洗って、その水でメシを炊きます。

メシは必ずなければならないものです。これを避けるというわけにはいかないでしょう。言わない限りこういう行為に気付かず、エライヒトは当然のようにメシを食い、汁を飲むでしょう。それを横目で見て、やった張本人は心の中でほくそ笑むのです。

この話を聞いて思うのは、トップが押し付けた嫌なことというのは必ず返ってくるということです。絶対服従の軍隊組織ですらこうです。会社組織などどうでしょうか?サポート組織も必ずなければなりませんが、それを差別していないでしょうか。

本当にいくらでもやり方はあります。そんな応酬をしたところで会社に一文にもなりません。情報を開示し、規則を周知するというのは、実は暗闘にならないようにコミュニケーションをとるということなのです。コミュニケーションを取らない人間関係は暗闘になります。そうならないように規則を作るのです。

仕事を価値あるものにする方法

ナイチンゲールのことです。彼女はクリミア戦争を通じて看護婦の地位を高め、敵味方の区別なく、すべての負傷者の手当をし、国際赤十字の創設に貢献しました。現在の看護師にとっても、その精神的バックボーンとなる人でしょう。

看護婦は下層階級の女性がおこなうどちらかというと卑しい仕事、召使いの仕事と見られていました。確かに、他人の血や膿に触れたりするし、下の世話も必要だし、伝染病がうつるかもしれないし、楽できれいで安全な仕事ではありません。ナイチンゲールは、上流階級のお金持ちのお嬢さんだったにもかかわらず、この仕事に誇りを持って取り組みました。

むろん、ナイチンゲールの偉大な人間性もあったと思います。しかしこれだけでは看護婦の職の地位向上にはならなかったかも知れません。何がさらに看護婦の地位向上に資したかというと、

「統計学」です。彼女は近代統計学の発展に尽くした統計学者でもありました。彼女はクリミア戦争が終わった後に、なぜ病院で兵士が死んだかを調べました。ナイチンゲールの努力にもかかわらず、戦争ではなく、病院の衛生状態が死傷者を増やす原因となったと分かり、彼女は10年間も寝込むようなショックを与えられたのです。

そこでイギリス陸軍を初めとした当局に陳情したのですが、現実を口頭で文章で訴えてもなかなか政府は動きません。そこで彼女は、統計を駆使して『鶏のとさか』ダイアグラムを作って、訴えたのです。その経験を基にした理系的な実証は政府を動かし、陸軍の衛生状態を改善しました。

この結果から見て、職業に愛着を持つには、単なる精神主義ではダメなことが分かります。職務を棚卸しし、理詰めで全職務を把握することで、初めて自分が何をやっているのかが分かり、そこに価値を見出すにはどうしたら良いかが分かってくるものと思います。

「権威」が吹き飛ぶとき

徳川幕府が君臨した二百数十年、身分制度が日本を支配していました。それを打ち破ったのが、身分不問の国民軍を作った高杉晋作ですが、彼の「革命」が成就したのは、1つの事件からでした。

高杉軍は幕府支持の藩政府と対決するため、衆をまとめて進軍しましたが、主将の晋作たちはともかくとして、その他の兵たちは「殿様に刃向かう」ということで今ひとつ乗り気ではありませんでした。

幹部の山県有朋などが、敵の油断する策略を立てて奇襲攻撃を決めても、やっぱり同士討ちと秩序破りの罪悪感が先に立ったようです。しかし奇襲攻撃を掛けて、2つのことが、烏合の衆を革命軍にしました。

その2つのこととは、
1、仲間が殺された。
2、相手の大臣クラスのVIPを殺した。
です。1は「仲間を殺しやがって!」という憎悪と敵愾心が起こったのですが、それは殿様はじめ組織に対するものではありませんでした。問題は2です。

このVIPは身分的には、この革命軍の幹部さえひれ伏してお辞儀をしなければならない、高い身分の人物でした。
彼はこう思ったといいます。「百姓ども、血迷ったか」「自分が一喝すれば、百姓どもは鉾をおさめる」
そして、「殿様のご命令に背くとは何事か。静まれ。武器を捨てよ」と言ったのです。

さすがに、兵士はひるみましたが、指揮官は違いました。ここですくんでしまえば自滅だと言うことが分かっていたのです。そこでとっさに「撃てっ」と号令を下しました。

兵士はこれもとっさに銃の操作をしニ十数挺の銃口が彼の胸板に照準されました。「刃向かうのか?」といったとき、一斉射撃が起こり、彼は蜂の巣になり、兵士たちは堰を切ったように突撃し、勝ってしまいました。

指揮官の真実を見るココロと、兵士の従順さが明治維新の幕を開けたといっても過言ではありません。ここで件のVIPが腰低く出ていればどうだったでしょうか。「権威」は吹き飛ばず、革命は成就しなかったように思います。「権威」があると錯覚し、頭高々と出ると、意外にコロッと倒れてしまうものですね。

どの国からも完全独立。依存するな

「朝鮮」の元首相、金玉均(1851~94)の言葉です。彼は明治時代の朝鮮の貴族で、近代化を掲げて革命を起こしましたが守旧派に破れ、日本に亡命しました。再挙を図ろうとして、上海で暗殺されました。

当時の朝鮮は王制でしたが、清国の庇護の下、国家システムは腐敗し、欧米列強に侵略されかかっていました。金玉均はこれを改め、日本の明治維新のような改革をしようとしたのです。

彼が、後の日韓併合などに果たした役割など、論争がありますが、国家の独立を誰より深刻に考えた政治家の1人だと思います。そこで独立とは何なのか、考えてみました。彼の言葉を拾ってみると、

わが祖国、朝鮮が真の独立国となるためには、

○ 古く遅れた老大国、清国とのくびきを断つこと。
○ そのためには日本を利用するしかない。
○ アメリカ・イギリス・フランス・ロシアではうまくいかない。
○ ここで私が殺されれば、朝鮮王朝は死体を八つ裂きにするだろう。
○ そうなれば、日本の友人(福沢諭吉など)は「清国と戦え!」と声高に叫ぶだろう。
○ 日清に戦争が起こって、その隙に朝鮮は独立する。
○ 朝、清、日の3国で、力の均衡が取れ、協力してロシアと戦う。

「依存するな」の意味が何となく分かります。彼は日本を利用しようとしましたが、清国のように庇護を求めようとはしていなかったのです。むろん、歴史はこのように進まなかったのは周知のとおりです。しかし命を捨てて独立を求めた革命家の現実に即した気概を示しています。

古きと決別し、周囲の力の均衡をとって自立する、という努力が、会社でも、また独立しても必要だと思います。

源頼朝の人事術

いうまでもなく、鎌倉幕府を開いた人物です。史上初の武家政権、どんな方針で固めていったのでしょうか。

1、天皇家とは違う政権をアピールする。
2、家来を大事にするが、反抗すれば容赦なく滅ぼす。
3、近い身内は殺してしまうが、少し遠い身内は優遇。
4、独自の組織を持つが、京都に負けないものを作る。

頼朝はもともと貴公子の出ですが、父親が裏切りで殺され、兄弟も敗者ゆえに悲惨な最期を遂げました。従って、上の方針に付きまとうものは「猜疑心」です。その暗さが源氏の将軍が3代でいなくなり、北条氏の幕府になる原因になりました。しかし、武家の政権はその後600年以上、日本に根を下ろしたのです。

4つの方針がどう推移したかというと、

まず、京都から遠い鎌倉に本拠を開いたのが、良いところでした。まだ貴族にコンプレックスを持っていた武士団に、俺等が棟梁!という意識を与えたのは良いことでした。今までの武家のボスは「京都のサルマネ」ですから、どうしてもトップにはなれません。それなら独立してトップになってやろうという気概が武士団をひきつけたのです。

まだまだ平氏に対して挙兵した弱小の頃に味方した有力武士団は、その後頼朝が勢力を増大する中で優遇されました。しかし、粛清されたものもいます。
○梶原景時 : 同僚を密告して、逆に嫌われ、討たれた。
○上総広常 : 「オレのおかげで命が救われた」と恩着せがましかったので、暗殺された。

実に分かりやすいやり方です。

また、身内に関しては、有名な義経や、同じ弟の範頼、叔父の行家などは、理由をつけて殺されたり、追放されました。しかし後の足利幕府の元となった一族や、100年後、鎌倉幕府を滅ぼした新田氏などは遠い親戚なので頼朝の地位を脅かさないと考えたのでしょう。本領を安堵されたりして、力を蓄えました。

幕府は頼朝死後20数年で跡継ぎがいなくなり、北条氏に権力を奪われました。徳川幕府はこれと反対で、身内を優遇し、200年以上の命脈を得ました。

また、京都と違いシンプルで分かり易い組織を作りました。しかし今日の国会たる政所や、裁判所たる問注所には、法律の専門家を持ってこなくてはなりません。こればかりは京都から貴族を呼んで作ってもらいました。

全体にオリジナリティーはあったのですが、頼朝のコンプレックスが、彼の直系を絶やしたというところでしょうか。しかし京都とは全く違う、権力闘争がまともに出る実力本意の政権を作ったのはその後、日本の発展に大いに寄与したことは言うまでもないことです。

リーダーシップ論―偉人説

リーダーシップはどうしたら取れるか、この疑問に最初に答えたのが、この「偉人説」リーダーシップ論です。つまり、かつての立派なリーダーの特性を体系立て、どのような人物で、どういう事績を挙げてきたかということを研究します。そして、それをなぞることによって優れたリーダーになれるというものです。しかしこの論は、間違っていることは何となく分かるでしょう。

カエサルや織田信長に学ぶというのもそうですし、松下幸之助や堀江貴文に学ぶというのも、アリでしょう。しかし昔のリーダーに学ぶのは、現在は反対者を簡単に消し去るようなことが不可能であったり、違う英雄が相反するセオリーで成功していたりと、結構混乱します。

では最近のヒトはどうでしょうか。

この場合も彼らの置かれた状況でのみ有効だったといえると思います。しかしそれを承知の上で冷静に判断・分析するならば、複数の経営者の持論を自ら学ぶ余力のある人、また特に優秀な人にとっては、ホリエモンのやり方は参考になります。キャラクターが自分に合うというのも条件に入るかも知れません。

どちらかというとマネするに値するのは、人格など、大雑把な部分ではなくて、こういう人事のとき、こうした、というマイナーな実践に対するバックアップといえると思います。つまり実際の行動に対する動機付けです。英雄と比べて実績で劣るのは、一般人なら当たり前のことです。

では過去の英雄と全般的に誰とも似ていない、リーダーになれないような資質の人でもリーダーになれるぞ!というのが、PM理論です。先天的なリーダーの資質を持っているヒトを雇うのは迂遠だ、リーダーは育てよう!というものです。

海戦にみる”中2階人事”

”中2階人事”とは私のつけた名前です。これは何かコトをなすときに、1人のトップと複数のスタッフが行動するときにトップとスタッフの間にもう1人「副司令官」をおくことです。しかもこれは「副官」(トップの秘書)ではありません。トップの権限をある程度分割して所有する権限の大きいものです。

トップは寝首を掻かれるのではないかと、ヒヤヒヤするのではと思いますが、この方法、勝つときも負けるときもうまくいく場合があるのです。

歴史的には日清戦争の黄海海戦、こちらは大勝利でしたが、太平洋戦争のミッドウェー海戦、これは日本の大敗北でしたが、”中2階人事”が敗北の中に一矢報いました。

どのように効果があったかといいますと、

日清戦争前、日本は艦隊を率いる慎重な性格のトップの下で、各艦長が命令を聞く編成でした。しかし直前になって、艦隊の中で高速艦を選んで、別働隊とし、これをトップと正反対の性格の司令官に遊撃隊として率いさせました。トップが中将、艦長連が大佐でしたが、この司令官は少将です。

黄海海戦では主隊と敵がガップリ組み合っているときに、この遊撃隊は高速で動き回って敵艦隊に打撃を与えたのです。この司令官は猪突猛進型ではありませんでしたが、正論を躊躇なく行うタイプでした。艦長クラスではこういう自主的な行動はなし難かったでしょう。

この遊撃隊の活躍で、日本艦隊は強大な清国艦隊に勝利を収めました。

もう1つのミッドウェー海戦。太平洋戦争の転機となった海戦で、日本空母4隻が全滅しましたが、4隻一度に沈んだわけではなかったのです。3隻が使い物にならなくなったあと、残った1隻の日本空母はアメリカ艦隊に果敢に攻撃を掛け、アメリカ空母3隻のうち1隻を沈めています。

その残った1隻に乗っていたのが、次席指揮官たる司令官です。彼も少将です。当時の日本艦隊のトップは航空戦には素人でしたが、この司令官は航空戦のプロでした。3隻やられたのをみて、もう我慢はしないぞ!と自主的に才能を発揮して、一矢報いたのです。

この年の暮れにはアメリカ軍は空母が1隻もないという危機に陥りました。一矢報いたのは無駄ではなかったのです。

両方に共通するのは、
1、決して上を侵さない軍隊組織であること。
2、トップに度量があること。
ですね。トップに過失があったとき、すぐにフォローして穴を埋めてくれる片腕、こういう人材に恵まれたトップは幸せだと思います。

一石四鳥!政治家、後藤新平

後藤新平という政治家がいました。幕末に生まれ、昭和初期まで生きたヒトです。

このヒト、医者だったのですが、行政官としての才能を見込まれ、日清戦争で日本領になった台湾の民政局長になりました。領土が増えたといっても、台湾は中国の支配下にあっても、4つの問題を抱えた統治しにくい場所でした。その問題を一気に解決したのが後藤新平です。

1、風土病 : 住民の平均寿命は30歳未満。
2、抗日ゲリラ : 長年の中国の支配から変わるのだから、当然日本の支配に反対した。
3、アヘンの吸引 : 言ってみれば悪しき生活習慣。
4、インフラの未整備 : 道らしい道もなく、鉄道も実用に耐えない状態。

さて、彼は、この4問題をどう解決したか?

まず3のアヘンの吸引は、いきなり禁止にはせず、免許制にし、官による専売制にしました。タバコに似ていますね。免許には税収があります。その税収は衛生事業に使い、病院を次々に建て、1の風土病の撲滅に一役買いました。アヘン売買免許は新たな免許を発行しない事で50年近くかけて、習慣を根絶しました。アメリカの禁酒法の失敗と比べると、効果はてきめんです。

また、アヘンの仲買人には利益を上げる傍ら、抗日ゲリラの説得に当たらせました。何しろ嗜好品ですから、説得力があります。

また、抗日ゲリラに関しては、罪人にしないので投降するように呼びかけ、投降したゲリラには土木工事を請け負わせ、仕事を与えました。その結果、2の抗日ゲリラ、4のインフラの未整備も肩が付きました。

彼の政策で特徴的なのは、全てを関連付けて処理するということです。
アヘンの吸引→免許税→衛生事業の原資
抗日ゲリラ→寛大な処置→インフラの整備の労働力

組織内の問題はすべて関連付けて解決できるという好例です。アヘンではありませんが、タバコの健康問題や、ニートの問題なども、同じやり方で解決できるのではないでしょうか。

後藤新平はのち東京市長や大臣を歴任し、日本国内でも特に都市計画でスケールの大きい実績を残しました。東京の山手通りや靖国通り、明治通りは彼の実績です。ラジオ放送やボーイスカウトの普及にも尽力しました。結果を出す実務家だったのですね。

西郷どんの人事論

また鹿児島ネタです。

西郷隆盛は自分のことを「才芸のない人間」と言っていました。彼は才芸のある人間を用いる方です。才芸とは理財の才、あるいは軍事や学問と言ったところでしょうか。語った言葉に以下のようなものがあります。

「才芸のある人間を長官に据えたりすれば、必ず国家をくつがえす」
というものです。つまり、専門家はマネジメントをやってはいけないと言う意味でしょう。薩摩藩では幕末に藩政改革で大いに財政を豊かにしましたが、その力は反対派を虐待することもあり、西郷や大久保利通の親族もひどい目に遭いました。

しかし大久保が「恨みと殖産興業は別だ」と考えたのに対し、西郷どんは「殖産興業をやるとロクデモない人間になる」と考えたのです。つまり最新技術は古きよき薩摩人魂をなくしてしまうと思ったのです。

しかし時代は西郷どんの懸念したようには行かず、最新技術を取り入れて今日の豊かな国をつくりました。しかし現在、100数十年を経てようやく西郷の精神重視の時代が到来しつつあるような気がします。専門職と総合職の違いを見れば、古臭いように見える西郷どんの言葉も、何か納得できるものを含んでいるように思われるのです。

今こうして書いていても、西郷「どん」と書きたいほど西郷隆盛は親しみの湧く人物です。革命家としての西郷どんは当時に不可欠でしたが、思想家としての西郷どんは現在にぜひ招きたいと思うのは私だけでしょうか。

学校の支配する国家

国が学校を作った例は多いものの、学校が国を作った例は、日本史では私は1つしか知りません。明治時代の西郷隆盛が作った私学校の支配する「鹿児島王国」です。

明治10年の西南戦争まで約3年しかありませんでしたが、西郷どんという大カリスマが「学校」を通して支配したという点では稀有な例です。学校というより政党であると理解した方がいいという本もありますが、その特徴は以下のようです。

○一国一校の独占的教育機関
○科目は精神教育、漢学
○校風は「薩摩固有の精神を守る」
○その精神は「武士として生死を省みるな」
○鹿児島県の民政を全部担当。
○「砲術科」と「外国語科」を設けた。

確かに学校であり、講義もあったのですが、実際は前記のように政党と考える方が分かり易いです。西郷隆盛自身が思想家史に出てくるようなカリスマでしたし、多くの薩摩武士を西郷色に染め上げた軍事教育という点では、後の西南戦争を起こしたことでも分かります。軍事的に衆の意思を統一した点では大成功でした。

この学校になかったものは、工業科と、戦略科でした。薩摩はもともと殖産興業の国だったのが、新政府への反発から一切工業を起こさず、戦争では西郷軍では極端な弾薬不足に苦しみました。また、どうやって政府軍を打ち破るかの戦略がなく、良い知恵もあったのに、終始力攻めで、ブレインがいませんでした。

国という複雑な組織を運営していくには、ある一方のことだけではダメなのです。学校もある程度総合的ならいいのですが、何かに偏ってしまっては、合理的に動きがたいことが分かります。西郷どんは革命家でしたが、他に価値観を持ち込むような人材がいたにもかかわらず、組織として受け入れられなかったのは、西郷どん個人はリベラルだったのに、残念なことです。

まつりごとは事務ではないよ

今から1800年ほど前の話、三国志の時代です。後に蜀の皇帝となる劉備は、ようやく一国一城の主となりました。当然地方官など、行政官が必要となります。そこへあばた面の、見るからに貧相な男がやってきました。

龐統(ほうとう)という男です。頭脳は当時の超一流。劉備の軍師諸葛孔明に匹敵する賢才といわれた人物ですが、外見はただの男に過ぎません。彼を知る孔明は地方に出張中で、何も知らない劉備は訪ねてきた彼を地方の裁判官にします。

しかしこの龐統、任地に下ってもまるで仕事をしません。毎日酒ばかり飲んでゴロゴロしています。「けしからん!」ということで、劉備軍一の猛将、張飛が監査にやってきました。

張飛は若い役人に言いました。「龐統はどこにおる?」
「今日も酒を飲んで寝ていらっしゃいます」

張飛は龐統のところへ行きました。
「やい!お前はいつから仕事をするつもりだ!」
「ぼつぼつやろうと思っている」

張飛は懲らしめるつもりで、「3日のうちに溜まった業務を処理しろ。さもないと首をはねるぞ」
と言いました。

翌朝から龐統はにわかに裁判を開いて、溜まっていた訴訟の処理にかかりました。
「こういたせ」
「こう仲直り」
「それは甲が悪い乙は何がしかの損害をやれ」
「それは丙が悪い。ムチを打って放せ」

さすが天下に1,2を争う天才です。水の流れるような仕事振りで、数か月分の仕事を1日で一気にやってしまいました。このときの龐統の言葉です。

「まつりごと(政治)は事務ではないよ。簡便なるほどよろしいのだ」
確かに書類を書いたりすることは事務ですが、天下の揉め事を裁き、切り盛りすることは、簡単な制度ほど良い、と言っているのです。このことは何も龐統でなくとも、マネジメントをするもの全てが、心得ることだと思います。何か難しいことを言うよりも、人を率いたり、揉め事を解決するカリスマ性というものは簡単な常識である事を考えると、良く分かります。

この後龐統は呼び戻され、軍師として蜀の国を作ることに活躍します。決して「知識の塊」ではない、簡便なる知恵が、戦乱の世に一国を作ったものと言えるでしょう。

ドイツ軍と連合軍

第2次大戦中、世界最強を謳われたドイツ軍。兵器に指揮官、兵員の素質も最高で、アメリカ・イギリス軍は苦戦しました。ではなぜ連合軍は勝ったのでしょうか?物量ということもあるでしょう。しかし私は組織の問題もあると思います。

ドイツ軍は誠実に任務を果たしていましたが、二者択一を迫られたときに、どちらを取るかは特定の人間(ヒトラー)の判断に委ねられました。多くの関係者が権限を分け持っている場合に、優先順位に関する合意はごく形式的なものに留まり、”全てを支配したい超人”に委ねられました。

独裁者が存在するおかげで権限が縦割りです。権限の配分が先で、問題の設定は後回しです。また、ヒトラーの人事は減点主義でした。

簡単に書くと、
権限の配分>問題の設定、優先順位
です。

これに対し連合軍は…

問題と優先順位の設定に多くの資源を費やしました。いちばん厄介な問題で正面からぶつかりあったあとで、、明確になった分の結論はみんなで推進しました。一部に不服従や失敗があっても、全体としてはひとつの方向へ資源がつぎ込まれました。つまり中でのギクシャクを外に出さないところが良かったのです。

連合軍はアメリカの後に大統領になったアイゼンハワーやイギリスのモントゴメリー、フランス軍やソ連軍は、戦後のギクシャクは予想していたものの、ベルリンを目指すという点では一致しており、連合軍の仲間割れを狙ったドイツの諜報活動をも封じ込めたのです。

問題の設定、仕事の優先順位>権限の配分
が正しいのですが、どうも大きな組織ではこれが逆になるケースもあるようです。そういうときには「連合軍」のように会社のアイゼンハワーやモントゴメリーに権限を分散してはどうでしょうか?

人材観の歴史と未来

先進工業国の、人材をどう見るか?については、産業革命以来の歴史があります。アメリカを例にとりますと、アメリカでもやっぱり最初から自由奔放というワケではなかったようです。

1、「科学的管理法」の時代(20世紀はじめ)…職務を細かく分割した出来高払いのシステム。英語の通じない移民に有効な管理法。
2、「人間関係学派」の台頭(1930年代)…人間は機械のように働くものではなく、対人関係に労働能率が左右されるという理論。
3、「人的資源」の時代(1970年代)…人材を戦略的資源として大事にしようという企業の意思の表明。人材は企業戦略を支援するというもの。

ここまで進歩してきましたが、これらの管理法は、「雇われ人材」に対するものというくびきがありました。
そして昨今は、
4、「人的資産」の時代(現在)
です!どういうことかというと…

○企業の競争はファイナンシャル・キャピタルから、ヒューマン・キャピタルに移行しています。
つまり従業員こそが最高の資産だという考え方です。

ではその資産の持ち主は誰か?企業のものであれば、「雇われ人材」のままです。
そこで、人的資産の持ち主は従業員本人という考え方が生まれます。

つまり個々の人材は企業と契約を結び、相応の成果を提供するということです。
企業=人材として互いに選び選ばれる関係ということができます。

人材も企業も自らを育成し、育てる義務があります。

将来においては「搾取される労働者」「肥え太る一方的な資本家」という図式は崩れ、全ての労務関係は対等のものになるのではないでしょうか。IT業界やトレーダーで当たり前だった常識が一般的になるのではないでしょうか?

江戸時代のワークシェアリング

愛知県に松平定政という殿様がいました。徳川家康の異父弟の子でしたので、甥っ子ということになります。その殿様がある日、こんなことを言い出しました。

○ 私の領地は2万石であるが、これをお上に返上する。
○ 私は1人で2万石をもらっているが、1,000石なら20人、100石なら200人、5石なら4,000人に分け与えることが可能である。
○ 私一人で4,000人分の働きをするわけにはいかないのだから、ぜひ返上した領地は4,000人分に分け与えて欲しい。

こう言って定政は長男とともに出家してしまいました。つまり、大会社の創設者の一族が、私は辞めるから、その給料で新しい人を雇ってほしいといったのです。この提案に対して、当時の幕府はどう対処したでしょうか?

当然2万石は没収、つまりお取り潰しですね。定政自身は「気が狂った」とされ、兄弟の藩にお預けになりました。幕府の政治を批判し、突拍子もない行動に出たから、こういう処分に出たのです。

当時の幕府は3代将軍家光が亡くなったばかりでした。幕府の基礎が固まった時期です。反乱を起こしそうな戦国時代以来の大名が多く取り潰され、その家来は収入を失いました。その結果、「浪人」によって治安の悪化が取りざたされ、定政は心を痛めたのです。

だから、幕政の批判ということで、家康の甥っ子といえども、容赦しなかったのですね。しかし幕府は浪人そのものに対する施策はなかったものの、浪人を出さないようにする対策をしました。「末期養子の禁の緩和」で、跡継ぎのない殿様が死ぬ間際に養子を迎えるのを許すというものが代表的です。

この後、浪人の反乱未遂事件もあり、「容赦なく取り潰す!」という武断政治から、「穏やかにやろうよ」という文治政治に転換した効果がありました。社会の安定とともに、浪人問題も終息していったのですが、浪人の再就職のあっせんよりも、その元の会社たる「藩」が潰れないようにする対策をしているところが興味深いですね。

革命家と政治家

幕末の革命軍というべき存在だった長州藩の奇兵隊は、トップたる総督とヒラの取締役たる軍監で幹部層を構成していました。身分に関係なく隊員を募った日本初の近代軍隊はどういう構造だったでしょうか?

総督はしょっちゅう変わりました。オーナーの高杉晋作はメンドクサイと言って総督の地位をすぐ退き、隊務を、軍監の山県有朋に任せました。

高杉晋作は革命家ですが、実務家でなかったので、組織作りや経済面などは、山県に任せたのです。歴史を回転させる体制は作るし、そのための行動は起こすけれども、組織を維持したり、隊士の面倒を恒久的に見たりということは苦手だったのです。この山県は実務家でしたが、卓抜した政治家でもありました。

実務だけやっていたのでは、平社員です。そこで彼は、得意の槍術を教えました。それで特殊技術の持ち主として重んぜられ、現場の分かる取締役として重きを成したのです。トップがころころ変わる中、山県は実務を執り行い、隊内ではナンバーワンの地位を得たのです。

政治家は自分の才気というものに重きを置きません。山県も槍術を生かしたのは最初のうちだけです。では何を信頼したかというと、「時間」です。力を蓄えつつ、時間が経過していくのを待つといえば簡単ですが、そのためには力が必要です。個人であれば忍耐力、集団なら団結力も必要です。

彼は決して実務以外の高邁な議論や、政治論議には加わらなかったといいます。これをやると平隊士から浮くからです。団結力の頂点に立ってこそのトップであると認識していたからでしょう。長州藩は絶対的なトップを許さない藩風でした。現在の日本に若干似ていますね。薩摩藩が「先輩の意思は絶対」というのに比べると対称的です。

だから、高杉晋作の革命の最初(たった30人で挙兵)には、山県は異を唱えて参加しませんでした。平隊士から突き上げられて、しょうがなく後から従ったのです。山県は歴史を旋回させる能力はありませんでしたが、歴史を維持する能力はあったということですね。彼の組織の才がなければ、奇兵隊は空中分解していたでしょう。

革命家の方針と、しっかりした実務の政治家、この2つで時代が旋回することがよく分かります。明治の世になり、国民皆兵の時代は奇兵隊をも解散させてしまいました。代わって日本陸軍ができましたが、山県有朋は大正時代まで長生きして、日本陸軍を発展させました。

日本にも現在多くの革命家が出ています。では実務家は?これだけ早い時代の流れです。もうあちこちで活躍しています。その実務家の中で国会に出るとかでなくても「政治家」になる方が何人いるでしょう。

恐るべし!戦時の労務管理

現在では中学を出ていないと、普通は働けないことになっていますが、60年前の戦争中はそうも言ってられませんでした。中学1年から、授業を休んで「勤労奉仕」として民間の工場などに狩り出されていたようです。最初は工場側でも持て余していたのですが、空襲が始まる頃になって切羽詰ると、結構重宝するようになったようです。

欠勤は厳しくチェックされたようです。チェックするといっても社長がするのではないのです。事業所は警察署に出勤簿(タイムカード)の提出を義務付けられていました。また、出勤簿の検査に警察官が巡回してきていた時代だったのです。

そこで何をチェックするのかというと、

当然、遅刻欠勤のことです。同一人が1ヶ月に何回も欠勤するとリストアップした上で、警察官が自宅を訪れて実情を調査します。

そこで悪質と断定されると、東京を離れて北海道の炭坑に送られました。強制労働の禁止も、職業選択の自由もあったものじゃないのです。なにしろ、「タコ部屋労働」の本場に恥じぬ過酷な労働条件に、厳しい気候で、想像以上につらかったようです。

送られた人は「これからはまじめに働くから、何とか帰れるように手続きをしてほしい」と、炭坑の仕事のつらさを書き連ねたそうです。

当時は鉄道で旅行に行くにも、警察の「旅行証明書」が必要だった時代です。あらゆるところに警察が入っていました。まあ、今の時代は良いです。中学から工場動員されたり、怠けたらしょっぴかれて酷寒の地で強制労働、なんてことはありませんから。

加藤嘉明の人事論

加藤嘉明(よしあきら、と読みます)は私の故郷、松山の殿様でした。豊臣秀吉子飼いの大名で、天下統一に大いに貢献し、城下町松山の基礎を作った領主です。家康時代も乗り切りましたが、会津に移ってから子の代で取り潰されました。

嘉明は晩年、ひとから、「どういう家来が、いくさに強いか」と、きかれました。当然、強いといえば天下にひびいた豪傑でしょう。
 が、嘉明は、
「そういうものではない。」と言いました。

「勇猛が自慢の男など、いざというときどれほどの役にたつか疑問である。かれらはおのれの名誉をほしがりはなやかな場所ではとびきりの勇猛ぶりをみせるかもしれないが、他の場所では身を惜しんで逃げるかもしれない。合戦というものはさまざまな場面があり、派手な場面などほんのわずかである。見せ場だけを考えるている豪傑など、すくなくとも私は家来としてほしくない」と豪傑を否定しました。

戦場でほんとうに必要なのはまじめな者である、といいました。見せ場のみを考えていると、肝心の合戦には負けてしまうんですね。地道な努力が必要ということです。目立たないけれどもまじめに任務を遂行している人、これを大切にしましょう、といっても、多くの経営者は気づいていることだと思いますが。

現在、「まじめなひと」という表現は「いい人」と並んで、損なキャラクターの意味と、畏敬を払う意味とが混じり合って、複雑なニュアンスで用いられることが多いです。しかし、まじめな人が得をする社会と、損をする社会と、どちらの社会に住みたいでしょうか?良く考えてみれば…です。

まあしかし、若者のみならず、年配の方でもまじめの良さに気づかず、デメリットばかりに目が行って、せっかくの「まじめ」を潰してしまうことが多いです。後に残るものは享楽的な雰囲気はいい場合もありますが、「まじめに働くのがソン、いい加減が◎」というのが一番怖いですね。

河井継之助の好色手帳

司馬遼太郎「峠」によると、この越後のサムライは江戸の歓楽街、吉原の遊女をほとんど買い、その感想をいわゆる「サービス嬢個別紹介書」につけていたようです。そのランキングとは、

×…バカで醜くて取るに足らぬ女
△…手取りが良いというだけの女
○…美しくて利口な女
◎…人間として見事に出来上がっている女

いや、非常に興味深い評価基準です。×や○は分かりますが、分かりにくいのは△や◎でしょう。

△の「手取り」とは給料のことと思われますが、給料が高い≠美女、人格になっていないところが興味深いですね。これはあくまでも河井継之助の評価ですから、現実ではないとしても、現在の遊び人も、こうした「基準」を持っているのではないでしょうか。単に無計画に遊ぶだけの男はともかく、「ちゃんと」遊んでいる方は結構精神面を重視するようですね。

◎は、テクニックがうまいということなのですが、マニュアル通りのサービスで気持ちよくということではなく、「心」を蕩かしてしまうほどの人間という意味だそうです。「こいつ、オレに惚れやがったか」と、巧妙にも思わせてしまう、これこそ究極のサービスでしょう。カネで取引しながら、帰ってくるものがこういうものならば、顧客に非常な満足感を与えるでしょうね。

風俗のみならず、こういうサービスを与える方法を学ぶには、いろいろな切り口があると思いますが、「仕掛け」があるかないかで、判断するのも1つの手かと思います。教養や血統、住んでいる家屋敷、家来の数に礼儀作法に儀式です。案外そんな形式が重要だったりします。この継之助の評価も「仕掛け」に重要性を認めています。◎の女性は天性の人格の他に、そういう「仕掛け」があったのですね。

1人の人間や1つの組織に過ぎないものに何らかの「ハク」をつける場合、こういう「仕掛け」づくりは大きな位置を占めるでしょう。

サイパン島と硫黄島

サイパンといえば、観光ですが、硫黄島は現在、アメリカ軍と自衛隊がいるだけの島です。第2次大戦中の日米の攻防戦の話です。サイパン攻略は
アメリカ軍死傷者14,111 日本軍戦死者41,244
硫黄島攻略は
アメリカ軍死傷者28,686 日本軍戦死者20,129

サイパンの方が面積も広く、日本軍の数も多かったのですが、アメリカ軍の損害は硫黄島の方が多かったのです。なぜでしょうか?

その原因は、硫黄島で改善されたところを見ると…

○ サイパンでは水際で迎え撃って艦砲射撃に遭い、上陸前に兵力を消耗した。
硫黄島では上陸をやらせて、兵力を温存し内陸で迎え撃った。

○ サイパンでは陣地を作って、空爆その他で粉砕された。
硫黄島では兵力全員が地下30mの地下坑道に籠って、空爆も艦砲射撃も効かなかった。「硫黄島」なので地熱やガスで大変な苦労があった。

○ サイパンでは戦車部隊を繰り出し、あっという間に撃破された。(当時の日本の戦車は時代遅れのシロモノ、おまけに狭い島)
硫黄島では噴進砲(ロケット砲:素早い分解が可能)を活用した。

○ サイパンでは民間人も犠牲になった。バンザイ・クリフは負の観光名所。
硫黄島では民間人は全部疎開完了。

ほかに硫黄島では、土木作業中は敬礼無用にし、作業能率をすすめるとか、戦死したアメリカ兵の軍服を剥いで着用し、英語で叫んで奇襲するとか、柔軟な発想がありました。

そして何といっても、「玉砕」という最後の突撃を禁止したところが良いですね。ゲリラとなっても敵に損害を与え、日本本土への攻撃を1日でも遅らせるというのは、戦略にかなったことです。司令官は軍事のみならず、作曲もたしなみ、アメリカの駐在武官の経験もあるダンディーなプロの軍人でした。

全体を抜く柔軟な合理性と、一部の効率の良い人情との組み合わせで、アメリカ軍に日本本土進攻をためらわせる戦略目的を達成した戦闘でした。

女遊びに奥さんを呼ぶ革命児

司馬遼太郎の小説を読むと、長州の革命児、高杉晋作や越後長岡藩家老、河井継之助といった主人公が、奥さんを芸妓遊びに連れ出すシーンがあります。

奥さんは才色兼備の立派な武家の妻で、奔放な主人公の後ろをしっかり守る、悪く言えば「遊び人亭主」に放って置かれる立場でした。この不器用な「奥さん操縦術」はどういう効果があったものでしょうか?

今こんなことをすれば、昨今の女性はどう思うでしょうか?「何ということを!言語道断!すぐ離婚だ!」と抗議すると思うでしょうか?

意外に淡々としているんですね。晋作の妻は「全く飽き飽きしてしまいました」と言っているし、継之助の妻は「どこが面白いのでしょう」と言っています。

しかしそんなことを言いながら意外に亭主を理解しているんですね。無論当時の道徳や雰囲気もあったでしょうし、彼女等の聡明さもあったでしょう。しかしヒスは起こさないのです。

なぜか?自分のために必死で楽しませようというダンナの姿勢が見えるからなのです。負い目を感じて自分のはらわたまで見せられると、どうもそこを追い詰めようという気には確かになりません。

今は幕末に比べると娯楽はいくらでもあります。しかし価値観の違いをどこまで認め合っているかどうか、その辺りは百数十年前から進歩どころか、むしろ退歩しているように見えないでもないです。筆者も言われることですが、どうも今は考えすぎですね。

しっかりと相手のことを思う、これだけで十分のコミュニケーションに結果としてなるのです。価値観の共有より違いをどこまで認められるか、そこがチームワークを生み出す原点のような気がします。

共有したつもりでも違いがどうしても出てくる、という状況より、違いを認めてギクシャクを承知の上で、おっ!分かり合える部分もあった!という方が何か良いような気がしますね。

北条早雲の人事術

北条早雲―早期の戦国大名の1人で、60歳になってから大名になりました。そんな早雲の人の使い方はどうだったでしょうか?

一言で言うと、人情と合理性を調和良くない混ぜたものです。一気に書きますと、

「武士らに扶持(ふち:領地)を与えるには特別な心得がいる。20前の若者や、70以上の老人には功があっても扶持を与えず、金銀を与えるが良い。老人は命の短いものであるゆえ、すぐその子の代になる。その子の器量が尋常ならよいが、つたなければ取り上げねばならぬ。しかし取り上げれば必ず恨みを含む」

「20以前の若者は、成人してどんな者になるか見当が付かない。若いときは優れていても、成人してうつけものになる者もあり、度々あやまちをしでかす者であることが珍しくない。これまた扶持を取り上げなくてはならないが、これも必ず恨みを含むようになる。

当人だけではなく、縁に連なる親類一族どもまで恨むものだ。といって、器量のつたないものに扶持を与えておけば、家中一般の気風が緩んでくる。とかくあとくされのないように金銀を与えておくべきである。」

扶持を地位と読み替え、金銀を昇給と読み替え、年齢調整をすれば、現代にも通じる立派な人事方針ができるような気がします。

しかし個人的見解ですが、早雲のような苦労人の引いた立派な路線を子孫が維持できなかったのは、誰にでもできるようなものではなかった、という点が原因だと思いますが、いかがでしょうか?北条氏は早雲の死後100年で豊臣秀吉に滅ぼされています。

改革者の”末路”

古来、改革者というのは、美名が残らず、悪名が残るといいます。なぜでしょうか?

1、組織に不都合が起こり、改革しようとする。
2、改革には才能が必要である。
3、これまでの幹部の中に才能がなく、下級社員から取り立てる。
4、この改革者は、周囲の嫉妬を買いやすい。
5、改革者は思い切った方法をとる。
6、下級社員が不利益を被る
7、素朴で単純な頭脳の「忠臣」が立って、分かりやすく糾弾する。
8、この「忠臣」に人望が集まる。
9、改革者を罷免せざるを得なくなる。
10、結局改革はできない。

という道をたどります。しかし小泉首相をはじめとする現在の”改革者”は、以下のような点に留意しているようです。

1、おおもとの体制に順応し、上にも下にも多数派工作をする。
2、反対派は容赦なく処罰する。
3、常に「正義」の理由付けを怠らない。

日本の昔の改革者は、細心に周囲に気を配りましたが、今の改革者は多数派工作をまずします。嫉妬や「忠臣」は「正義」の明分を取って血祭りに上げ、見せしめにします。日本的政治も良い意味でヨーロッパ的になってきたようですが、今の日本は改革者にも良い世の中のようですね。

日本の改革者、聖徳太子から戦国、幕末,明治の人物は本人か、子孫が悲惨な最期を遂げています。これがイランやイラクだったらどうなるか?考えただけでも恐ろしいです。しかし一連の小泉改革は、日本史に前例を見ない、一滴の血も流さない理想的な「名誉革命」になるような気がします。

歴史を変えた大説得

また、坊さんの話です。
文覚上人(「もんがくしょうにん」生没年不詳)のことです。平安末期、源氏と平氏が覇権を争っていた頃の人物です。

平氏全盛の頃、横暴極まる平氏を倒す勢力の筆頭として挙げられていたのが、伊豆に流されていた源頼朝でした。後に鎌倉幕府を開くあの頼朝です。しかし、その頼朝も幕府を開く第一歩を踏み出すのは、相当勇気が要ったようです。

彼は流人でしたが、生活は源氏ゆかりの豪族が賄ってくれました。従者を置くくらいの暮らしが可能で、近所の姫君との恋愛を楽しんだりしていました。今の「義経」の中井貴一のようなイメージの緊迫した政治の世界を望むヒトではなかったのです。まあお気楽なプレイボーイといったところでしょうか。

その頼朝を巨大な敵に対する挙兵に踏み切らせたものは…他にも要因があるでしょうが、

この文覚上人の説得だったという伝説があります。

上人は頼朝のところへ行って「兵をお挙げなさい」と言いますが、なかなか頼朝は聞きません。ある日上人は風呂敷包みを持っていきました。中から1つのドクロを取り出し、うやうやしく拝んでから言いました。「このドクロは、何を隠そうあなた様の御父上の首級でございますぞ!」頼朝の父、義朝は平氏に負けて逃げる途中、だまし討ちに遭って殺されました。

これはプレイボーイも飛び上がらざるを得ませんね。上人は「私がこっそり平氏のところから盗み出してきたものでございます」と来歴まで明かしました。これで頼朝も決心が付いたのです。しかしこれが本物の義朝の首級であったかどうか。そこら辺にドクロが転がっていた時代でしたからね。俗才に長けた上人の知恵だったかもしれません。

この坊さんは元々は荒武者だったのですが、人妻に恋愛して恋敵と誤って殺してしまい、出家しました。この時頼朝と同じ伊豆に来ていたのも、京都の神護寺の再建費用を強請したため流されたもののようです。平氏滅亡後は生き残った平氏の幼子の命乞いをしたりと、荒々しい中にも人情のある坊さんだったようです。神護寺では今も、中興の祖として文覚上人を称えているようです。

この坊さんに共感の持てるのは、何宗とか、何氏に属するとか、私利私欲でモノを言わないところですね。非常に「男らしい」生き方です。しかしやり方が乱暴で周囲との軋轢が多く、何度も島流しに遭っています。こういう人は組織にとってはコワイのです。無欲の強さですね。

戦略と士気

さっさと逃げるはロシアの兵♪死んでも尽くすは日本の兵♪

日露戦争を歌ったお手玉歌の一部です。10年前の日清戦争でもロシアを清国と置き換えて、全く同じ光景が展開されました。ロシア軍や清国軍は、何も負けて退却したわけではありません。退却して相手の疲労を待って大反撃して最後の勝利をつかむ、そんな戦略だったのです。

しかし、なぜ、ロシアや清国は敗者になったのでしょうか?

それは、兵士の「士気」の問題にありました。戦争は行け行けドンドン、進んで何ぼの景気良さで殺し合いをする行為です。逃げるのは、どこまで逃げるというところがあっても、癖がつくとどうしようもありません。

ロシアも清国も、日本軍がろくに食料も、弾薬もないのを知っていました。だから、疲れたところを撃つというのは勝つ目的を達成する戦略にかなっています。

しかし戦うのは生身の人間です。退却して意識が尻すぼみにならないようにするには、よほど指揮官が優れている必要がありますが、当時のロシアも清国も老大国で、そんな天才はいませんでした。ここでは、両国とも積極的に戦うべきだったのです。戦略よりも、意気消沈した集団の雰囲気がロシアと清国のその後を決定したと言えなくもありません。

ナポレオンと参謀本部

ナポレオンがアレクサンダー大王、ジンギスカンに次ぐ「侵略者」になり得たのはなぜでしょう?自由を各国に運ぶ正義の軍隊だったから連戦連勝したのだ、という論議もありますが、一番の原因は彼が軍事の天才だったということでした。フランスの猛威に、プロシャ、ロシア、オーストリア、イギリスなどは対策に頭を痛めました。何しろ、相手は「天才」ですから。

ここでプロシャ(ドイツ)の取った戦術は、「参謀本部」方式でした。天才一人にかなわないなら、大勢の知恵を出し合おうというわけです。参謀本部で参謀を育成し、前線の各部隊に送り込むというやり方でした。これらの参謀は連携して情報交換し、全体の流れをつかんで司令官に報告し、司令官はそれを参考に軍を動かします。

ナポレオンのトップダウン方式に対して、衆知を集めたボトムアップ方式です。ワーテルローの戦いではナポレオンの命令を誤解した将軍が戦場に間に合わなかったのに対し、プロシャ軍はイギリス軍を素早く援軍として助け、勝利を収めました。

では日本はどうだったでしょうか?

日本はどちらかというとナポレオン方式でした。「参謀」を教育して作っても、現場の声の強い風土では、あまり役に立たないからです。ラインとスタッフの区別を余りしないでうまくやってきました。

そういうところで無理に”スタッフ”階層を作るとうまくいかないんですね。みんなスタッフが特権階級だと思ってなりたがるに決まっていますから。本来スタッフは諮問機関で、決定機関ではないのですが、スタッフがトップのようになって専断した場合の悲劇が多いために、ワンマンな社長といわれようと、日本の社長はスタッフ機関(参謀本部)を設けないのです。

ですから、日本では社内では、ラインとスタッフを分けずに、諮問機関は外部の人間がなるのです。共同経営が日本の場合大抵仲間割れに終わるのは、内部では却ってモノが言いにくいからです。だからストレスがたまってケンカになるのです。

日本の参謀本部はできて100年持たず、戦争に負けて消滅しました。ナポレオンは参謀を置かず、アドバイスしてくれる人がいなくなったために墓穴を掘りました。一番のトップの組織は、外部アドバイザーの生かし方にあると思いますが、いかがでしょうか?

100年後の人々のために

明治時代の外相、陸奥宗光のことです。彼の仕事のモチベーションはどういうものだったか考えてみました。

彼は、江戸幕府が結んだ不平等条約を改正すること、日本史で習うところの「条約改正」に手腕を振るった幕末志士の生き残りです。外交の他に、例の足尾銅山鉱毒事件を無視した”悪人”として知られています。

今だから評価の高い条約改正も、当時は評判が悪かったのです。なにしろ、「外国人が日本全土を自由に往来し、商売できる」ことと引き換えに条約改正を行おうとしていたのですから。まだ残っていた”攘夷”運動の極端なナショナリストの恨みを買わないはずがありません。

また、足尾鉱毒事件は、公害対策をしませんでした。宗光の息子が足尾銅山の経営者の養子になっていたことも相まって、大変な非難を後世にわたって受け続けました。同じ頃、公害対策をした鉱山があったのにも関わらず、です。

ではなぜ、宗光は世論の非難を一身に浴びて、そういう政策を通したのか?

答えは”100年後の人々のため”です。外国人を入れることについての宗光の言い分は…

「たとえ外国人が入っても日本は乗っ取られはしない。多くの民が、女子供も含めて今よりもっともっと苦しみながら働くからな」

当時の日本は今日では想像の付かない貧乏国でした。足尾銅山で産出された銅は生糸とともに外貨獲得のための重要な資源でした。しかし、ご存知の通り、山も川も荒れ果て、悪い病も流行り、日本最初の公害問題としてクローズアップされました。鉱毒に苦しむ人々については…

「今苦しんでいる民に安楽の日が来ることはない。100年後の人々のために苦しんでくれ。貴様たちも、私も、我々の一生は血を吐き、苦しみ続け、死ぬだけだ」

宗光の究極の目標は…

「しかし、我々が死んだ後、我々の子や孫の時代には、植民地とされず、西洋と肩を並べる日本、そしてアジアが存在するはずだ」です。

宗光死後、100年後の我々はどうでしょうか?宗光の理想は半ば達成されたものの、「100年後の人々のために」といえる政治家や経営者、さらに一般市民がいるでしょうか?財政問題に環境問題、「100年後の人々のために」解決すべき問題は、むしろ増えたような気がします。

西洋と日本、一番違うところ

それは、思想のことです。日本人が昔から身に着けている思考の方法は、「真実は常に2つ以上ある」ということです。つまり、会社という存在も価値があるが、私生活という存在も価値がある、ということです。

これはもともと日本人が自然崇拝だったことに原因があるでしょう。アイヌのコロボックルはフキの下の神様です。日本では山にも川にも無数の神様がいました。「便所の神様」の民話もあります。中国から儒教や仏教が伝来しても、「無数の神様」の1つとして受け入れられました。

しかし西洋は違いました。

一神教ですから、神はその人にとって常に1つ、真理も真実も1つです。その対立から多くの戦争が起こり、「魔女は火あぶり」という現象もありました。しかし日本人は1人で川の神も、山の神も、便所の神様も信じてご利益を得てきたのです。

そういうDNAで、将来何をするか、どこへ行くか、決めようと思っても、非常に苦しみますね。生きがいや生産性の問題やニートの問題は、昔からの思考方法をも大事にするところから考えねばならないようです。だから多様性を尊重するにはそれを纏め上げる組織体系が必要なのです。

国を滅ぼした愛国者

戦前、第2次世界大戦に向かって進んでいく世相の中で、多くの暗殺事件が起こりました。その最たるものは昭和11年の2.26事件でしょう。

殺した側はすべてが”愛国者”でした。国を思って要人を殺したのです。しかし彼らは結果として敗戦という形で国を滅ぼすことになりました。国の永遠の繁栄を願ったのに、なぜそうなったのでしょう?

理由は短絡的な思想にあります。気に入らないから命まで取ってしまえ、という小学生でも分かるような考えです。裏返せばはなはだ他力本願なやり方で世の中を良くしようとしたのです。何しろ、消せば良くなる、と考えてのことですからね。

暗殺された方は日本にとっては重要な人物でした。この人物がいれば戦争は起きなかっただろうという方も含まれています。彼らは日本が主体的にこうするべきだというテーマを持っていました。

しかしテロリストやその背後の黒幕は違います。

一知半解の知識でもって短絡的に事象を結びつけた考えで、力のない自分たちが上司をたきつければ上司がうまくやってくれると思っていました。それはそれで純粋なのですが、力のない上司はそれが自分のためになるか考えました。自分のためにならないとなると、さっさとこのプロジェクトを投げ出して、テロリストを処刑して終わらせてしまったのです。

残ったのは人材の死だけでした。昭和戦前に限らず、どうも”気に入らない排除”は組織の衰退をもたらすようです。

東条英機は独裁者だったか?

日中・日韓関係が小泉首相の靖国参拝で揺れています。中国、韓国が唱えるA級戦犯合祀の問題は、太平洋戦争当時の首相、東条英機に象徴されています。彼が責任者であることは日本人でも認めるとして、ヒトラーに相当するような独裁者だったのでしょうか?

筆者は独裁者ではないと考えます。その理由は、
1、「独裁者的地位」は東条個人の魅力でゲットしたものではない。
昭和19年2月、首相兼陸相(軍政責任者。天皇の軍の統率の手助けをする)東条が参謀総長(軍の統帥主務者。作戦を建てる実務トップ)を兼任したいと言ったとき、天皇が認めたのは、陸海軍の対立を和らげるためであった。(人数が少なくなるから揉めないだろうと考えた)

2、首相兼陸相兼軍需相兼参謀総長では、十分な執務時間がない。
参謀総長の仕事は実際は参謀本部次長がやっていた。

3、東条は元々生真面目な性格だった。
サイパン島陥落とともに、退陣せざるを得なくなった。(昭和19年7月)5ヶ月だけの「独裁者」だった。ヒトラーは12年、ムッソリーニは23年間、勢力の伸縮はあるものの独裁者だった。

日本は二重権力の好きな国ですが、実際には「分散権力」というものでした。例えば江戸幕府は天皇・将軍・老中・側用人…いろいろ。鎌倉幕府は朝廷・将軍・執権の三重権力構造でした。日本の歴史で独裁者が君臨したことは一度もありません。独裁者のようなものが出現しても、時として血を流さないような方法で退陣せしめられています。

どうも日本の組織は社長が偉くないんですね。労働基準法が経営者に厳しいのも、日本の二重権力好きのDNAなのかも知れません。特に日本人的にやろうとすれば、権力分散でやれば、人々に受け入れられる組織ができるような気がします。しかも鎌倉幕府の執権でも何代も続いたように、顔ぶれが変わっても続く組織構造が大事なのです。

”反政府運動家”の素質

明治初年、江戸幕府を倒した新政府は、さっそく自分を倒そうとする勢力を排除する組織を作り出しました。そのひとつが警視庁です。生みの親、川路利良は「反政府運動家の探索心得」というものを作っています。その中に「偽の人望家を探せ」という項目があります。

偽の人望家とは、
1、上に抗して下に人望を求めるもの。
2、この弊、封建時代(江戸時代)に少なく、当今(明治初期)に多し。
3、上に向って申述する器量なく、下に向って上を非とし、下に人望を求めるもの。

とあります。こういう人物が反政府運動をするのだ、というマニュアルです。

しかし多くの反乱者たちは偽ではない人望家でした。例えば西郷隆盛は現在に至っても大変尊敬されています。他の群小の反乱首謀者も人望がありました。だからこそ衆を集めて反乱が起こせたのです。

しかし確かに、”上に抗して”はあるかも知れません。たとえ下から人望があっても、上に逆らわなければそもそも火は出ないのです。こういう上下の人望を兼ね備えるという人物はよくいますね。企業で重宝がられる人材です。反乱軍になるのは、「上に抗する」人物です。こういう方は企業内で孤立したり、独立したりしますね。

現在は”反乱軍の時代”かも知れません。上のマネジメントが気に入らないから独立する、という方が多くなってきているのは上に挙げた偽の人望家が多くなっているということでしょう。無論どこが”偽”かというと、組織にとって都合の悪い人望を”偽の人望”というのです。組織を作るにあたり、”真”の人望と偽の人望を見分ける力が必要かも知れません。どちらが悪いということはともかくとして。

平凡ということ

平凡になることは難しいよ、という真実があります。しかし、トップが平凡だとどうなるか、ここに1つの歴史上の例があります。

来年の大河ドラマは山内一豊の妻の話です。陰日向に夫を助けたいわゆる”あげまん”のお話で、妻の活躍で夫は土佐高知24万石の大名に出世してハッピーエンドという結末でしょう。

しかし、大名になった後の一豊は恐るべき”凡人”ぶりを発揮します。
戦国大名は、実力社会ですから相手の国を取ったり攻め滅ぼしたりした場合、トップのクビはとっても、家来は召抱えるのが普通でした。普通と言っても征服者ですから、寝首を掻かれる可能性もあったりします。しかし大大名といわれる殿様はその包容力で敵対者を味方に変えていきました。

将棋の駒は敵方の駒を取ると味方の駒として使えますよね。それと同じ発想です。

しかし一豊は違いました。

彼が土佐藩主になったのは徳川家康に認められてのことでした。土佐の国はそれ以前は長曽我部(ちょうそかべ)氏という大名で、家康に敵対して滅ぼされたのです。滅ぼされたといっても元は四国を征服した大名で、有能な家臣が大勢残されました。

もし一豊が包容力があれば、この家臣を再び雇ったでしょう。もとは敵方の家臣でも家康に許可を得て自分の家臣にした例は数多くあります。しかし一豊は平凡な人柄です。土佐以外のところで新規に雇った家臣を連れて土佐に入りました。従ってもとの家臣はほとんど農民同様の身分でした。不平がなかろうはずがありません。

また一豊は相撲興行をすると偽って、この元家臣たちを集め、73人をいっせいに磔にして殺してしまいました。彼らが反乱を起こせば、たちまち大名は取り潰されてしまいます。不安の種は取り去っておこうというわけですが、それにしても手荒いやり方です。

この後、野中兼山という政治家が出て、土佐を富国にしました。さらに幕末、土佐勤皇党という時代に先駆けた志士の集団ができました。しかしいずれも潰されて、関係者は陰惨な最期を遂げました。

こういうことはどうも藩祖一豊の「凡人」からきた藩風のようなものの気がするのです。そう考えると私は一豊という、ある種の「常識人」は好きになれないのです。

旧日本軍、士官の考え方

旧日本陸海軍の士官といえば、少尉以上、大将に至るまでの軍隊の管理職です。暴力が多く、奔敵(敵に走る)脱走も他国の軍隊と遜色なく出た日本軍です。しかし特にその草創期である明治時代は士官の考えもうなずけるものがあります。私自身は軍隊が消失して久しい時代の甘ちゃんではありますが。

士官を教育する陸軍士官学校、海軍兵学校も先輩後輩の秩序があって、鉄拳制裁も行われていました。その理由は、

一般の兵隊ならともかく、士官が人を殴れないのはイカン!

徴兵された兵隊を率いるとはどういうことか?

兵隊一人一人の生命をこの手に預かることである。

ひいては日本の国に暮らす人、全ての命を預かることである。

日本は貧乏国である。その中で国民は皆、死ぬ思いで働いている。

なぜ働くのか?西洋の植民地にならないように働いているのだ!

生命を守るには、いざとなれば、素早く最良の決断を下すことが必要である。

そんな中では手っ取り早い暴力での秩序維持もやむをえないことである。

と、こういう感じの思考回路です。

暴力はいけませんし、軍隊と違って現在の社会は死ぬは生きるはの世界ではありません。しかし、平和な時代でも経営者や管理職が部下の背景に思いをいたすとき、これは尋常にはやっていられないと思うのではないでしょうか?

個人単位では人は存在せず、どんな人でも家族があり、親があり、囲まれている社会があります。人間個人は醜いところもあります。しかしその人間を囲む社会に責任を持とうというところに、職業人としての純粋な使命が生まれるのではないかと思います。

ネットの良い所は、欠点もありますが、人とのつながりを簡単に実感できるところにあります。最近特に若い人が、個別のわがままな人間から、社会に囲まれた「使命的人間」としての自覚を持つようになりつつあるのは、バブルがはじけて以来私が良くなったな、と思う点です。

”鬼平犯科帳”の世界

今日初めて池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」を読みました、といっても、さいとう・たかをの劇画です。立ち読みでパラパラと見た感じではどうも退屈だなという印象があったのですが、読んでみると登場人物が多く、人情に起伏があり、読み応えがありました。

人情に起伏があるというのは、淡々と物事が展開しないということですが、人の感情は江戸時代も今も変わりないということです。そしてその感情に基づく出来事もまた、現代と置き換えて考えることが可能です。インターネットのない分、昔は人と人とのコミュニケーションが濃厚で、口コミが電波の如く広まる、という感じです。しかし、当然違うところもあります。

現代との違いは、身分制の存在でしょうか。主人公の長谷川平蔵は江戸中期に実在の人物で、50歳くらいまで生きたようです。遠山の金さんに似て、「若い間は遊び人♪今は立派な奉行様」で、下々の人情に通じています。剣の達人で、時には悪党と斬り合いもします。

しかし基本的には立てられる人であり、人格的にも立派な人なのですね。水戸黄門もそうですが、誰もがひれ伏す「権威」のある時代だったのです。そりゃある程度美化されもしたでしょうが、そういう欠点は隠されるのではなく、下々のものが許す形になっているところが興味深いところです。

つまり、「権威」を社会が作って、それを拠り所として秩序が動く、そんな感じです。「権威」は秩序そのものであって、よほどのことがないとケチを付けるものではないのです。一方的な生まれつきの専制君主がいたわけではないのです。

偉い人は下々の大衆、部下はもちろん、近所の商家のダンナや隠居も含めた地域社会が作っていたのです。江戸時代の身分制社会が二百何十年も続いたのは、身分の矛盾はあっても、平和を多くの人々が望んだせいでしょう。

武士が威張って農民が搾取された、そんな単純な図式ではなく、農民も武士の権威付けを担っていた、というところに鬼平や金さん、暴れん坊将軍や水戸黄門の面白さがあります。真に頼れる管理者とは、実は社会と仲の良い人、つまり立てられるほどの徳を集団から与えられる人のような気がします。

カタログデータというもの

日清戦争の黄海海戦(明治27年:1994年)のお話です。
以下のデータは日清の参加艦船の大砲の門数と速力(knot:ノット)です。
このデータを比べて、どちらが勝つと思いますか?
当時は大艦巨砲の時代、威力のある軍艦を持つことは、今日の核ミサイルに匹敵しました。

日本海軍
30㎝台砲3  20㎝台砲8 15~19㎝砲31 10~14㎝砲59 砲数101
平均速力16.3ノット 装甲7.5㎝

清国海軍
30㎝台砲8 20㎝台砲14 15~19㎝砲15 10~14㎝砲12 砲数49
平均速力15.6ノット 装甲21.1㎝

日本艦隊の長所は、
○速射砲が多い:1分間に6発撃てる、清国は数分に1発。
○速力が速い:海戦時、日本は10ノット、清国は7ノット
短所は、
○大口径砲が少ない:20cm以上の大型砲では日清1:2
○装甲が薄い:平均で日清1:3

で、清国艦隊は日本艦隊のそのまま裏返しで、長所が短所になります。
結果は清国4隻沈没、日本は大破が4隻。その後黄海の制海権は日本が握りました。
ということは、軍艦のカタログデータ以外の要素が勝利を導いたということです。

日本側の勝った原因は、上記の長所のほかに、
○艦隊運動(清国艦隊の周りをくるくる回って砲撃を加えた)が優れていた。
○指揮官の意思疎通がうまくいっていた。(清国側は逃亡した艦もあった)
○運が良かった(魚雷がそれた、など)

ここで目立つのは、指揮官(トップ)の意思疎通でしょう。いくら兵器が優秀で、兵隊が奮闘しても、トップが優秀でも、足並みが揃っていないと勝つことは難しいということです。

当時の清国は、兵隊からトップまで、十分な教育を受けた実力者が多かったのです。しかし皇帝はお飾りで、西太后が海軍の費用を私物化したりして、軍隊の機構自体がガタガタでした。日本は、与野党の政治の対立も、天皇が収めて一丸で戦争に臨みました。

つまり、カタログデータ以外の性能や動機付けの問題だったといえます。優れた資源、優秀な人材、これだけでは戦争に勝てず、組織の問題が大きく左右しました。カタログデータが間違ってなくても、戦争に負けることもあり得ると思います。

差別と軽蔑の哲学

以前、ヒトラーの年金について調べたことがありましたが、ヒトラー治下のナチス・ドイツとはどのような政治体制でしたでしょうか?

一言で言うと「差別と軽蔑の哲学」に基づくものだったのです。ユダヤ人迫害や捕虜虐殺、強制労働はすべて、この哲学の名のもとで実行されました。なぜこんなものが生まれたのでしょうか?

第1次大戦後のドイツは、稀に見る不景気でした。かといって、お金持ちがいないわけでなく、産業復興も順調でした。一言でいうと「上下格差の時代」ですね。下のものは当然上のものをうらやみ、しばしば倒そうとします。

当時の政府はワイマール憲法に象徴される議会制民主主義政府です。しかし昔からの貴族社会や家父長的家庭制度は厳然と残り、「プロシアでは国家が軍隊を持っているのでなく軍隊が国家を持っている」といわれたような軍国主義も健在でした。昔からの制度抜きには政治の安定など望めない状態でした。

それをナチスはどう利用したのか?

上下格差の”下”のものには、”上”の者が悪いんじゃない、ユダヤ人が悪いんだ!また、外国が悪いんだ!と言ったのです。”下”のもので実力があれば、既存の階級でなく、新設のナチスの役職を与えました。これで昔からの貴族や軍隊も納得します。しまいには貴族や軍隊もこぞってナチスに入党し、地位や名誉を求めるようになっていきました。

これこそ、差別と軽蔑の哲学で、ユダヤ人虐殺もドイツ国民には抵抗なく受け入れられていきました。日本のえた・ひにんの制度に似ていますね。もっとひどいのがいるから我慢せよという意識です。

もっともこんな秩序は崩壊するのが当たり前で、ドイツは敗戦し、責任者は裁かれ、処刑されました。他人を言われなく差別すれば、その他人は差別する人間を支持しない、と言うことに留まりません。悪い意味での上下の差別と軽蔑に基づくマイナーな感情がとめどなく広がっていくのです。ユダヤ人差別はロシア人や東洋人まで広がろうとしていました。

むろん、敵側の連合国やその他外国のみならず、ドイツ人もこのような秩序の良くないことを知って、糾弾する人はいました。道義的にも当然こういう秩序は許されないことです。

組織のトップの中には、このように「スケープゴート」を見出して秩序を保とうとする方もいます。しかしお金がお金を生み出す運用ならともかく、差別が軽蔑を生み出す組織は、ナチスのように「敗戦」することは間違いないでしょう。

「人間に価値があった」3,500年前

今から3,500年前、中国の話です。当時は殷王朝。いわゆる”お話”と遺跡から分かる時代相です。この時代はまだまだ奴隷制時代。中東ではハムラビ法典が出た時代ですが、中国では法典が世に現れるのにまだ1,000年ほどかかります。

この当時のお墓を発掘したところ、「殉葬」された人が多かったようです。お棺のある西側の穴に24人、東側に17人の男女の骨が埋まっていて、その上層に頭骨が散らばっています。この41人は生前は近侍・侍女だったらしく、装飾されています。

もっとひどいのは少し離れた穴に10人ずつ首をはねられた人骨が放り込まれていることです。要は、近侍・侍女と奴隷を数十人、王の死とともに首をはねて死刑にして一緒に葬ったということです。

別の場所では、軍隊が500人、首をはねられて埋葬されています。指揮官は首があるのですが、兵隊はことごとく「クビなし死体」です…

写真を見ると非常にグロいのですが、解説はこの「人間の屠殺」は実は人間に価値があったから、と言っています。血による浄めの儀式によって、牛や馬を葬るより死した主人の肉体は神聖にされ、あの世での安らかな生活を保証される。また、軍隊を500人殺すのは、あの世での安全を保証するものである、とあります。

でもそれにしてもグロ過ぎます。

当時は科学的な実証が少なかったので、古代人は目に見えぬ「悪魔」とも戦わねばならない現実がありました。高貴な人間の血を流せば流すだけ、この「悪魔」が浄化され死んだ王の永生が保証されるというものだったようです。

こういうものを見ると、つくづく現代の文明・科学はありがたいものだと思います。文明に囲まれていても、閉鎖的な集団には同じような思いが芽生えるように感じました。「人が貴重で大事だからこそ」の大虐殺なのです。

やたらバッサバッサと人を殺す殺人鬼や、オウム、浅間山荘の連合赤軍なども同じ心境になるような気がします。思想や時として自分自身が脳内で極端に偉いものになってしまったとき、これが怖いのです。

たとえ首を切って穴に放り込むほどでなくとも、何かの道連れに殺すほどでなくても、過剰な愛がしばしば生命を奪うものであるように、極端な「思想」は非常に非合理的なことが多いです。

そこへ行くと「制度」は批判されることが多いけれども、何といっても大勢の合意で生まれたものであり、少なくともオリジナルな「思想」よりは世の中に膾炙しているのです。会社も同じです。「制度」のない会社は、「偉大な王」のために貴重な人材を殺して穴埋めにしてしまう、こんなことが現実でないと言い切れるでしょうか?

乱暴者鎮圧か?官憲の横暴か?

昔は夏になるとダウンタウン(労働者の街)では、暴動が起こることがありました。バブル崩壊後の不況で最近ではすっかりおとなしくなったとも言いますが、どうでしょうか。15年前の「釜ヶ崎暴動」は、ニュースでも報道され、生々しい映像が全国に放映されたこともあります。その映像を見る機会がありました。

1990年の暴動では、警官が暴力団と癒着していたということが公になり、周りの労働者が警察署を襲ったのが発端でした。鋼鉄のカブトムシの大群のような機動隊が、主に白いシャツを着たオッサンたちを追い散らしていきます。

オッサンたちの問いかけにはカブトムシの群れは無言です。「秩序を守る、法を守る」以外の要素は警官には無用なのです。石が当たり、血を流して意識不明になっても彼らは恨み言のひとつも公にすることは許されていないでしょう。でも映像を見る限り、警官は弱そうな人ほどぶん殴りますね。

我々なら「ああまた警官の不祥事か」でニュースを見て終わりですけれど、普段警官に監視され、いわれなき差別を受けている人間の怒りは想像を絶します。強者におもねり、弱者を叩きのめす公的権力。この矛盾はオッサンでない腰抜けでも怒らざるを得ないでしょう。ただ大多数の人々は生活を守るため、暴動しないだけの話です。

そもそも「弱い」立場の人をなぜいじめるのか?ここに問題があります。特に組織内では弱い立場も強い立場の人も、それほど違いがあるわけではありません。色々な事情を抱えている人が多いのです。それを理解せずにカネやモノで釣って、陰で迫害しては何にもなりません。

日本の昔話は意外にお年寄りや子どもが活躍します。農耕民族ですから、全ての人の力を結集しようとするDNAがあるのでしょうか。「弱い」人を切らないでいかに集団の力を発揮するか、ここにこれから労務対策の妙味があるかも知れません。

しかし最近は強い人が多くなって、世の中息詰まるようになったり、「強い」人ほどストレスを貯めたりと、全ての人が「弱い」人と言えなくもありません。釜ヶ崎暴動の労働者も警官も、実は似たようなものなのでしょう。

こうなると支援するとか、助けるという一方的な対策より、目的に合った仕組みづくりの方が重要になってきます。釜ヶ崎もNPOの活躍が良い効果を上げているようです。カネもモノも含めて、コミュニケーションを円滑にする仕組みづくりを大事にしていきたいと思いました。

大愚の管理職是か否か?

トップは必ずしも有能である必要はない、というお話です。長州藩の幕末期のトップは「そうせい候」と言われた、少なくとも表面上は愚直な殿様でした。

家来A:「幕府を倒したいです」トップ:「そうせい」
家来B:「幕府を倒したいなんて言った奴を処刑します」トップ:「そうせい」
家来C:「討幕派を処刑した奴に仕返しします」トップ:「そうせい」
家来D:「あいつは有能だから処刑しません」トップ:「そうせい」

と、こんな具合です。もっとも長州藩はトップの権威を認めないという反骨精神がありました。そういう空気もあったでしょうが、よく言えば柔軟、悪く言えば節操なしです。しかしこのやり方で、時代の流れにうまく乗った、ともいえるのではないでしょうか。

長州藩の高杉晋作がいい例です。彼はそこそこ良い出のお坊ちゃまでした。世の中が変わらなければ、ひょっとして家老くらいまでいけたかも知れない家柄です。しかし彼は脱藩はするは、公金を遊興に使うはで、とんでもないワル坊主でした。

しかし彼の才能を認めた人間が「許されませ」といって、例によって「そうせい」で、未来の家老が革命児になったのです。ただその晋作も「晋作を殺しましょう」「そうせい」で随分逃げ回っています。(笑)

土佐藩は坂本竜馬はじめ、長州藩に負けない人材を出しているのに、長州藩に出遅れたのは、トップが有能だったからです。土佐のトップは養子からでた苦労人で、かつ学問もすごい出来で、力も強かったようです。

家来A:「幕府を倒したいです」トップ:「ハァ?バカじゃねえの」
家来B:「幕府を倒したいなんて言った奴を処刑します」トップ:「手ぬるい!拷問して吐かせろ!」
家来C:「討幕派を処刑した奴に仕返しします」トップ:「本意じゃないが仕方ない」
家来D:「あいつは有能だから処刑しません」トップ:「ダメ!殺しちまえ!」

結果として土佐藩は大勢の人材を自ら失い、維新に出遅れました。幕府は有能なトップ(井伊直弼)を失って滅びましたが、長州藩は無能なトップが新時代を開いたともいえます。トップは有能か無能かどちらが良いか?

結局は足元の組織が決めるような気がします。長州の藩風は述べたとおりですが、土佐や薩摩は上意下達の縦割り社会でした。薩摩も結果として藩風で西南戦争を起こし、多くの人材を失っています。若い人の意見を円滑に聞ける組織、これが一番理想的に思います。

テレビと幕末

この変化の激しい時代に、大河ドラマでなぜ「幕末」をやらないのかと不思議に思っていましたが、そのわけが分かりました。幕末の移り変わりの激しい情勢に視聴者が付いていけず、わけの分からない面白くないものになって視聴率が稼げないというものだそうです。

そりゃ幕府に薩摩、長州、土佐にその他もろもろの諸藩、人物でも坂本竜馬などは土佐を脱藩し、海援隊を作ったり、幕府派だった組織や人が急に天皇派になったりと、ややこしく、またその変化が1年の間に起きたりと理解しづらいですね。

戦国時代がどう収斂して行ったのか、江戸幕府はなぜ倒れたのか、日露戦争はなぜ起こったのか、焼け野原の日本はなぜ復興したのか、驚異的な歴史の事実は複雑な事情を抱えています。転じてやっぱり人間は複雑だということでしょうか。

しかしながら、歴史モノというのはやっぱり人間そのもののドラマです。しかもノンフィクション(が前提)で、第一線の人物だけでなく、名もない人間も動き回って動天の歴史を作るんですね。数式どおりことが運ぶわけでもない人間社会を理解するのははなはだ難しいです。

しかし人間の”専門家”を自称するためには、今後ますます多様化する個別の労働問題に対応するには複雑な情勢も理解することが必要です。しかしテレビの例のように、それが受け入れられなければなりません。自分の学んだものを簡単に伝えられるように努力しなければなりませんね。

俳人の後継者選び

松山や秋より高き天守閣  柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

愛媛県は松山出身の俳人、正岡子規の句です。筆者は中学生時代「子規研究クラブ」に所属していまして、多少造詣がありました。司馬遼太郎が明治最大の教育家としている人物です。では一般人にはなじみにくい、子規の教育の成果とはどんなものだったでしょうか?

江戸時代は俳句は金持ちの道楽と思われていました。落書き程度の遊びではあっても、芸術ではなかったのです。無論松尾芭蕉や小林一茶などの名人はいましたが、明治に入ると文明開化の波も手伝って、芸術としての俳句はすっかり衰退していました。

それを引き上げたのが子規です。意味のない虚飾を廃し、見たものそのままを読む「写生」を主張し、格調高い芸術の域に高めるまで考証しました。35歳で病没した子規の思想を継ぐ実力者が2人いました。

1人は高浜虚子で、「写生」はあくまで五・七・五で行うべきだと主張し、自然界・人間界の現象を無心に詠うもので、当然季語も入るという句風です。

もう1人は河東碧梧桐(へきごとう)の「新傾向俳句」で、見たものそのままなら五・七・五も季語もいらないじゃないかという句風です。例えば、新傾向俳句の代表的俳人、種田山頭火の句、

傘も漏りだしたか

これも歴史に残る名句です。

しかしその後栄え、現在に残るのは虚子の正統派の方です。自由に感じたままを読むといっても余りにも自由過ぎて俳句が俳句でなくなってしまうという感じではなかったでしょうか。

自由といっても、やっぱりある程度カタのはまった自由の方が、人々の支持を集めやすいことが分かります。偉大な創業者が残した革新的で自由な風に、ある程度のカタをはめて良い所を残すのが後継者のひとつの役割であり、組織を永続させるものではないかと思います。

「ヒゲの木村」の作戦術

「ヒゲの木村」とは木村昌福(きむら・まさとみ)。太平洋戦争中の日本海軍の艦隊司令官です。立派なひげを生やしているので「ヒゲの…」といい、旧軍人で私の一番好きな人物です。この提督が活躍するのは日本が大分負けが込んできた時期ですから、余り派手な印象がないのです。しかし退勢の日本海軍の中で連合軍にひとあわ吹かせた実力はすごいものです。

中でも面白いのはキスカ島撤退作戦です。昭和18年、北方の孤島を占領したものの、制空権、制海権をアメリカ軍に奪われた中、5,000人以上の将兵を1人残らず助け出し、損害もなかった世界的な退却劇です。

成功した理由は、

1、アメリカ艦隊がたまたま補給のため、包囲を解いた。
2、そのとき島を包んでいた濃霧が1箇所だけ晴れ、そこへ艦隊が突入した。
3、気象班の努力で、濃霧が発生するタイミングを捉えた。
4、木村司令官の焦らないおっとりした性格。

99%の努力と1%の運ですが、ここでは司令官の性格が大きく出ていると思うのです。実は前にも一回、救出に向かっていたのですが、霧が晴れてしまい、「死を覚悟しています!行きましょう!」と迫る部下や上役を尻目に引き返しました。

そして、霧が出るまで悠々と碁を指し、気象班からの報告があるやすぐに2度目の出港をしたのです。その間のプレッシャーは相当なものがありました。勇敢な突撃を美とする当時の軍隊の雰囲気にとらわれなかったことが、作戦を成功に導いたのです。

しかし木村司令官は決して合理的な計算家ではありません。昭和19年末、日本海軍が最後に勝利した海戦も彼の指揮によるものでしたが、撃沈された味方の艦の生存者を危険な海域に留まって多数救い上げています。人情と計算天秤にかけるというよりは、人情がよい結果を生み出した、そういう感じがするトップです。

理想的な女性管理職

歴史上の人物で、理想的な女性管理職とは誰でしょうか?私の場合は、組織を発展させたという他に、女性なのに男性並みの働きをしたという「名誉男性」ではない、ということを挙げたいですね。女性という武器も活用しないと、観察者としては面白くありません。

イギリスのエリザベス一世。イギリスのその後の大発展の元を築いた人物です。彼女がイギリス人のたくましい魂を育て上げ、「働け!稼げ!」という波を作り出したといっても過言ではありません。その歴史的な功績は書籍で読むとして、その性格は、

○ 相当な苦労人。母は父親に斬首され、自身も処刑一歩手前までいった。その結果強い自制心、自己偽装の技術が培われた。
○ 「処女王」であり、一生夫を持たず、しかし政治的に無力な愛人はいた。独身であることを武器に、外国の国王との友好を維持した。
○ 優柔不断とも見える用心深さ、さらに「ケチ」。金のかかる戦争をせず、貧乏国だったイギリスの財政基盤を作った。
○ 手段を選ばぬ人材登用。海賊を容認して彼らを援助した。無敵艦隊を破った提督は海賊上がり。
○ 民間業者に積極的な保護を与え、ガメつい重商主義で国内産業の育成を図った。宗教的にも新教と旧教の中道を行った。

いかがでしょうか?スケールは小さくとも、こんな女性は結構いて、しかも活躍しているのではないでしょうか。ガムシャラに働く高度成長期の男性とは違う、新しい女性が、組織の隆盛を作る時代もありなのではないでしょうか。

「煙突男」の時代

「煙突男」と言われても何のことか分からない人が多いでしょう。文字通り、煙突に登った男の話です。時は昭和5年、11月中旬の川崎の紡績工場。目的は労働争議の勝利のため(!)です。

高さ56mの煙突に登って6日間、食料や水は持参したものの他、差し入れられたものの、一度も降りずに仮眠は煙突の周りの小さい足場でとります。演説をし、散々当局を翻弄した上で労働者の大勝利を勝ち取り、煙突から降りました。見物人は最高で1万人にもなり、52日間にわたる労働争議に決着をつけました。

これ、実は労使紛争で労働者側が勝つための最高の手段なのです。利点を列挙すると…

○世間の注目を引く。宣伝効果は抜群!
○警官が上がってこれない。
○人を傷つけたり、会社に損害を与えることはない。
○真っ黒になってしまって何者か分からない。(笑)個人攻撃ができない。
○見物人が大勢集まる。当局は見物人の前で労働者に手荒なことができない。
○当時の昭和天皇が鉄道で近くを通り、「あれは何か?」と尋ねるとコワい。(笑2)

この「煙突男」もこういう戦術を取るだけの背景があったようです。
○肺結核で余命いくばくもなく、労働者のために尽くす一途さがあった。
○算数ができないと勉強してついに一番になるという負けず嫌いの一面があった。

さて現在の「労働者」はここまでやる自信と体力があるかどうか?「煙突男」は労働者側に雇われた工場外の人間でした。しかし今の”個人別労使紛争”の現実に比べると、スカッとしたものを感じるのは私だけでしょうか?

藤堂高虎の人事

伊賀・伊勢(現在の三重・奈良県)の大名だった殿様です。戦国時代の人で、無名の頃から転々と主君を変えましたが、戦のごとに手柄を立て、信長・秀吉・家康などの権力者に好かれました。最終的に京都に近い良い立地の大名に落ち着き、明治まで続いています。

英雄豪傑というより、戦国時代を巧みに生きた「処世術」の天才として語られることの多い人物です。

高虎は殿様になっても逸話を残しました。家康が死ぬときに「いつ眠るのか」というほど献身的な看病をして、「高虎は外様(徳川家の親戚筋でも家来筋でもない)だが、絶対反乱を起こすことはない」という位の信用を得ました。

また、もともと高虎の居城は伊賀上野という内陸部にありました。しかし高虎は、「これからは海に開いた交易の時代だ」と言って、海岸の津(三重県の県庁所在地)に城を構えました。その結果、内陸航路の拠点として栄えるもととなりました。

しかし何といっても、面白いのは次の逸話です。

不祥事を起こした家来が5人出ました。罪状は身上を潰してスッカラカンになっちゃった、というものですが、その動機は違うものでした。3人は博打で、もう2人は女に貢いでというものです。高虎は博打の方は軽い処分にとどめ、貢いだ方は追放しました。

その理由は、「博打で全財産失う方は、まだ相手に勝とうという覇気があり、用いる甲斐がある、しかし女にたぶらかされているようなものは何の取り柄もない」というものです。

現在ならどうでしょう?女性の心を知らないと商売にならない、という時代には合わないでしょうか?高虎の処世術は、たとえ疑われようと誠心誠意努めるということです。家康も最初は「縁者でもないのに」と、疑っていましたが、その誠意が10年20年と続くと最高評価にならざるを得ないのです。

高虎が死んで二百数十年後、徳川幕府の危機に際し「藤堂家と井伊家を先陣に出すべし」との家康の遺言に従って、藤堂家は薩長軍と戦う鳥羽・伏見の戦いの先陣に立ちました。しかし藤堂家は戦半ば、幕府軍を裏切って、新撰組、会津藩の軍勢に砲弾の雨を降らし、いわば明治維新の先駆けをなしました。

徳川家に忠誠を尽くすのではなく、「時代に付き、忠誠を尽くせ」というのが、高虎の暗黙の家訓だったのかもしれません。

「常紋トンネル」を読んで

北海道の北の果てにあるという以外、何の変哲もない鉄道トンネルです。ただ近くの信号場はスイッチバック(一旦引込み線に入って入線する)なので、相当な急勾配区間です。蒸気機関車の時代も、また今でもこの区間はもう1両機関車を加えて走ります。

問題は、このトンネルの改修工事の際、立ったまま埋められた骸骨が発見されたという事実です。これは明治以来の過酷なタコ部屋労働の血塗られた歴史の証拠です。つまり、鈍器で殴って気絶したところをトンネルの壁面に塗り固めて、数十年後…

おお!やめましょう!(ホラーや残酷シーン弱いのです)残酷シーンは本書に譲るとして、気になったのは現在「労働者に甘すぎる」とされる労働基準法との関連です。

いわゆる昔のタコ部屋労働と現在の関連を整理すると…

1、タコ部屋労働は制度的な慣習として今でも大都会の片隅に存在する。
2、労働者自身、「弱きは死ね」という過酷な制度に慣れてしまう、悲しい存在である。
3、学歴、素行の問題でタコ部屋労働者が生産されたのではない。だまされて連れてこられた人が多い。
4、その思想は今でも日本の労務慣習全般の中に生きている。

考えてみれば、現在の成果主義人事制度も、タコ部屋労働制度といえなくもないです。タコとは他雇(他人に雇われる)という意味に、海の軟体動物のタコが、餓えると自分の足を食って生きるという意味もあります。

他人を蹴落として成果を上げるのは「成果」で、他人の成果をアシストするのは「成果」でないのか?日本の成果主義人事制度が失敗した原因は正にここにあり、タコ部屋労働制度が結局戦後まで堂々と残った原因もここにあります。隣で働く奴が死のうが殺されようが「成果」には関係ないよ、ということです。

現在の過労死や自殺、家庭崩壊していく悲劇に使用者の残酷さもさることながら、労働者の慣れや無知が関与している現実は現在でも否定できないでしょう。

労働者に甘すぎる労働基準法は、確かに多くの事業主を不幸にする側面があります。しかしタコ部屋労働に代表される余りに残酷な歴史は、「将来においてまた繰り返さない保証はないだろ?」と我々に問うているように思えてならないのです。人間、いくらでも残酷になれる、とは誰の言葉だったか?

政治家の人事

戦後60年、日本は戦争もなく、平和な時代が続きました。そんな中での総理大臣職は、重箱の隅をつつくようなあら捜しが続き、短命に終わる例が多かったのです。但し小泉政権はまる4年。5指に入る長期政権になろうとしています。戦後最長は佐藤栄作の7年、吉田茂の6年がこれに次ぎ、中曽根康弘の5年が最近では真新しいところです。

では、長期政権の人事とはいかなるものであったか、これは基本的に「後継者の競争」にあったと私は見ています。つまり、ボスの下に同じような実力の後継者候補を複数名競わせて、実績を上げるよう仕向ける、もしくはおのれを凌がないよう牽制するというものです。

「人事の佐藤」佐藤栄作の場合、田中角栄と福田赳夫の両者を競わせ、田中が実績を上げれば福田を引き上げ、福田の勢力が伸びると田中を取り立てるといった競争をさせました。吉田茂は佐藤栄作と池田勇人、中曽根康弘は竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一でした。

ただし、何十年前の昔はともかく、現在はどうでしょうか。宮沢喜一は加藤紘一、河野洋平という後継者がいましたが、2人が同じ派閥にいたために分裂しました。その加藤派も分裂しています。竹下派は小沢と小渕に、小泉首相の森派は結束していますが、どうも宮沢政権以後、総理大臣の人材統御法も様相が変わってきたようです。

複数名競わせても、後継というよりは自分のカラーの集団を作ってしまう感じです。つまり、大政党1つの時代から、小党分立の時代に入ったということです。小泉首相も、実力者連のボスというよりは、多くの小党を束ねる鵜飼いというイメージがあります。これまでの長期政権のイメージを覆す総理大臣になりそうですね。

政治は大方針に沿ってみんなで行こう、というものより、小党分立で、政策ごとに連携してという風になりつつあります。一応小党はここ最近集約され、自民・民主の2大方針に従うという感じに表面上はなっています。しかし両党の足並みの乱れを見るにつけ、小党分立は価値観の多様化を背景にむしろ強まっているような気がします。

日本では単一巨大政党の時代、独立小党分立の時代は過ぎました。今後は総論賛成、各論反対というように、政党単位よりも派閥単位の時代になるような気がします。自民党では郵政民営化の問題で、賛成派と反対派が戦っています。自民・民主の構造はそのままで、民主党との間で派閥の交換が行われるのかどうか?今後の政局に注目です。

倒幕戦争と日清戦争

最近、小が大に打ち勝って、新しい時代を打ち立てた、という歴史上の事件の研究をしています。

題名の倒幕戦争とは江戸幕府 VS 薩摩・長州で、日清戦争とは当時の清国 VS 日本です。言うまでもなく地方領主が巨大な中央政権を倒し、小国が大国を破った戦争でした。

よく言われることは、敗れた方は「武器も旧式で人材がいなかった」ということなのですが、そこは当時でも大組織の強みで、武器は新式のものを豊富な資金を用いて購入し、人材も大勢の中から家柄にこだわらず優秀な人物を抜擢していました。

幕府の勝海舟は下級武士だったし、清国の提督、丁汝昌は敗将であるにもかかわらず、日本でその男らしい態度に評判が高かった人物です。

ではなぜ負けたか?簡単に言えば「みんなが参加する意識」だと思うのです。指揮官がいくら優秀でも兵隊が付いてこないと戦争に勝てなかった当時、兵隊の「意識」が、時代の立役者の交代を促したのです。

倒幕戦争では家柄にこだわらなかったのは両方同じですが、特に長州藩では武士以外から明治以降、有名人が出ているのに対し、幕府は大名・武士(剣術のできる人)の中から選んでいました。こうなると「しもじもの者」のインセンティブは明らかで、やる気が違うでしょう。

日清戦争の清国軍は、金で雇われ、文官に比べて身分が低いとされた武官に率いられた私兵の集団でした。一方日本軍は国家の一員として戦争を自らの意志で行う「国民」でした。何かの一員として任務を遂行する、という帰属意識が勝敗を分けたのです。

そう、集団の構成員1人1人が「どれだけ意識を利益集団に集中できるか」ということが、勝敗を決する元になりました。昨今の企業・役所の不祥事に凶悪犯罪、虐待などの発生は、集団に対する帰属意識で避けられたように思うのです。

そこまででなくとも、企業内で一体の意識を持てば、これほど強い集団もなく、そのお手伝いをするのが、人事の専門家たる社労士ではないか、と考えます。

危機の外務大臣

私が明治維新以降で尊敬する歴史上の人物は3人ありますが、いずれも外務大臣です。そのよく知られている実績は…

陸奥宗光  … 不平等条約改正、日清戦争講和条約
小村寿太郎 … 日露戦争講和条約、不平等条約改正
東郷茂徳  … 太平洋戦争終戦

いずれも、日本が相当な危機に見舞われたときの外務大臣で、その後の日本の礎を築く元になる業績を残した人物です。彼らが活躍した舞台の詳細は書籍に譲るとして、その交渉の特徴は「崖っぷちギリギリの交渉」にあると思います。

つまり、例えば戦争の講和に失敗すれば疲弊した国家を再び戦争の惨禍に放り込まなければならなくなります。しかしそのプレッシャーに屈することなく、相手国に対し卑屈になることなく、テクニックも駆使して、正に決裂の一歩手前で自国の長期的利益を勝ち得た、というものです。

では、現在の外務省、外交の現状はどうでしょうか?

外務省なんか要らない、とされた騒ぎはこの4年ほど前ですが、東郷茂徳が寿命を削って得た60年の平和の間、外交は崖っぷちギリギリの交渉はなくて済んできました。ヒマになったら不祥事か、といったところで、これも平和の証しかも知れません。しかしここへ来て、中国との問題が曲がり角に来ています。

外交も政治もそうですが、交渉事というものは、たとえ今時代に合っていないようでも、先を読んで落し所を決めるという必要があります。なぜそんな苦労をせねばならないかというと、相手が人間またはその集団だからです。合理性だけでも、義理人情だけでも動くとは限らない中で、危機の中の外務大臣はそんな法則性のない世界で立派な結果を残しました。

外交も政治も結局、人間を扱うことそのもののような気がします。「まつりごとは事務ではないよ、簡便なるほどよろしいのだ」と吉川英治の「三国志」にありますが、交渉事自体は後で本を読めば簡単なことに見えます。ただし「人」を扱う職業ならば”崖っぷちの交渉”やどんでん返しの展開などは覚悟しなくてはならないなと感じています。人間を扱う商売は実は究極の裏方さん(苦労が分かりにくいという点で)のような気がします。

刑務所の脱獄と教育

吉村昭「破獄」を読みました。以前、緒方拳主演でNHKのドラマになったこともあります。

昭和戦前~戦後に掛けて厳重な警備の刑務所を4回脱獄した男のすさまじい一代記です。その方法は…

1、昭和11年 青森刑務所脱獄:入浴用具の金具を獄房の合鍵に加工。
2、昭和17年 秋田刑務所脱獄:小さくて天井の高い鎮静房という獄舎で、手のひらと足裏を両生類のヤモリのように、獄舎の対になった両方の壁に押し付けて壁面を登り、天井窓を割って外に出る。
3、昭和19年 網走刑務所脱獄:食事の味噌汁の塩分で特製手錠の鍵穴と獄房の鉄窓の目釘を腐食させて緩ませて逃げる。
4、昭和22年 札幌刑務所脱獄:床板を切って地下から逃走。

監視できなかったのか?と思いましたが、この男は看守に「こんな獄舎はすぐに破ってみせる。。あんたが当直の時に逃げてみましょうか?」などと、これまでの脱獄「実績」を強調して心理的に脅して、監視を厭う雰囲気を作っていました。とにかく、脱獄のプロです。

札幌刑務所を脱獄し、捕まってからは、東京の府中刑務所に、特別車両を借り切って移されました。その後は脱獄せず、昭和36年、仮釈放になりました。関心を持ったのは、この脱獄常習犯を府中刑務所でいかにして模範囚にしたか、という点です。

彼は犯罪を犯す前は家庭を持つ自営業、出所後は日雇労務者で、勤勉な働きで建設会社から入社をすすめられたりしましたが、自由の身でありたいという希望で断りました。要するに社長クラスの知能の高い人物だったようです。

脱獄の理由は北の過酷な気候の他、看守の監視の厳しく、冷たい扱いも原因にありました。監視の厳しい看守の当番の日の晩に逃げるということもやっています。それを知った府中刑務所の所長は、基本的に監視や扱いを緩める温情主義で行き、成功しました。

むろん、懲罰刑から教育刑に移行した行刑制度、第2次大戦の戦中・戦後の混乱期から高度成長に向かう時代の流れという社会背景もあったでしょう。またこの男の年齢や個人的事情も脱獄をあきらめる原因になったかも知れません。

ここで思い出すのが、人材育成法のコーチングです。人材を育てるのに、脅しつけるよりも、相手の「気付き」を促すというやり方です。この本での温情主義というのは単なる甘やかせではなく、周りは敵でない、人間として受け入れているということをこの脱獄のプロに分からせるよう仕向けるという意味です。

新入社員にはティーチング(一方的に命令し、教えること)で良いのですが、即戦力を前提に、これまでの各人の蓄積を生かした人材育成法をとる場合、ティーチングではうまくいかなくなっています。「社員教育」というよりも、社員と共同してある目標を作り上げる、という視点が不可欠になっています。もし一方的に会社の意思を押し付けるものだと「脱獄」してしまいます。

会社を監獄にたとえるのは変ですが、この「破獄」は「脱獄」しない模範囚にするにはどうしたら良いか、という示唆を与えてくれるような気がします。

松陰 in プリズン

19世紀日本の最大の教育家、吉田松陰。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら幕末の志士を世に送り出し、維新の原動力となった思想を打ち立てた碩学です。

そんな松陰も、ペリーの黒船来航の際、「一緒に乗せて行ってくれ」と頼んで断られ、鎖国の国法を犯したかどで、罪人になりました。

すごいと思ったのは、その獄中における態度です。
最初は江戸の牢獄。生殺与奪の権を握る牢名主に議論を吹っかけ、「明日もやれ」と感動させました。
次に故郷の獄に入れられました。このときは牢獄を大学の講義室にしてしまいました。

こういうことになったのは、彼の長州毛利家一と言われた才能もさることながら、彼の純粋無垢な態度です。江戸の牢獄では「私は死を覚悟して渡海を決意したのでどこで死んでも悔いはない」と言いました。故郷の牢獄では収監者の長所を見出してその一芸ごとに師匠として敬い、長年牢に入って表情がなくなっているような者にまで、人変わりせしめました。

ここで重要なのは…

① 格好だけでなく本当にリスクを負える態度
② 欠点を包容し、長所を伸ばせる性格
私は教育者ではありませんが、賃金・人事など「ヒト」に関する商売をする上で、こういう覚悟は必要ではないかと思いました。

昔の牢獄は「ひねくれ者だ」「浮気をした」という程度でも5年10年と牢入りしていましたが、個室に引きこもった現在社会自体、昔の牢獄と言えなくもないです。そうした中で「ヒト」を伸ばすにはどうすればいいか、松陰はリスクを負った末、刑死しましたが、死ぬほどでなくとも、よほどの覚悟が必要だと思います。

傭兵の作った社会

傭兵というと私は「ランボー」や先日のイラクの日本人傭兵を思い出します。昨日、ドイツの30年戦争についての本を読みました。

ちょうど日本では江戸幕府の基礎が固まって、天下泰平だった時期。ドイツでは宗教改革の影響で、旧教と新教のあいだで30年も戦い続けた時期がありました。ここで活躍したのが「傭兵」です。

「傭兵」は文字通り雇われる兵隊なのですが、現在の自衛隊や、各国の軍隊のように公務員ではありません。戦争が起こった国へ行って、自分たちの部隊を売り込み、高く雇ってくれる方に参加します。公務員というより、自営業です。当時の軍隊はこれが主流でした。

しかし30年も戦い続けるわけではなく、当然中休みがあります。むしろその期間が長いことが問題です。公務員は戦争がなくても国民の財産で養ってもらえますが、自営業の傭兵は戦争の期間を限っての「有期雇用」なので休戦中は失業してしまいます。

今のように失業保険があるわけでもないので、戦争がないときは収入もなく、武器もあるとなると、傭兵は農村へ略奪に走ります。戦争があってもなくても奪われた結果、虐殺や餓えでドイツの人口は1,800万人から700万人に減りました。戦争を続けた方が良いわけなので、八百長戦争をやって真剣に戦わないことも多く、30年も戦争が続いたのです。

ここで重要なのは、傭兵の身分です。有期契約で、雇用が確保されないとなると、仕事も私生活も荒れ果てるというのがよく分かります。この戦争後、ドイツは向こう200年分裂し、産業の発展もイギリス・フランスに比べて遅れを取りました。

傭兵の戦争で社会の長期間の荒廃を招いたこの戦争の顛末を見て、継続的な雇用と、それに伴う組織に対する帰属意識の重要性が何かよく分かったような気がしました。