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日本最高の女性上司

推古天皇のことです。外国ではこのヒトでしょうが、日本最初の女性天皇たる推古天皇もなかなかのものです。かの聖徳太子の親分に当たるヒトで、6世紀末~7世紀初めの人物ですから1,400年近く前の話になります。

39歳で帝位について以来、この方の元、大和政権は安定し、以後の国の元となる法制度や文化の発達がありました。彼女の功績は大きくあげると2つあります。

1、聖徳太子という有能な行政官に法制度を整えさせた。
2、蘇我馬子というワガママな有力者の手綱を見事にさばいた。

人材を見抜いて任せることができ、しかも荒馬をさばく女傑というものはそういるものではありません。しかもこのヒトの先代の天皇は、蘇我馬子に殺され、聖徳太子はたった19歳です。このヒトの性格は、

○ 頭脳明晰な人で、聖徳太子と蘇我馬子の勢力のバランスをとりました。
他の臣下の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図ったのです。若い太子を摂政として、十七条の憲法を初めとする、新しい制度づくりや遣隋使などの外交をやらせたのは、ガミガミいってのことではありません。「推古天皇はカイライだった」という説が後世出るほど、思い切って政策を任せるトップだったのです。

○ 重臣の蘇我馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がありませんでした。
こちらは逆に放任しておくとまずいタイプです。彼女の即位までは散々権力闘争で血なまぐさい争いをし、天皇までも倒してしまうほどのヒトでしたが、即位以後、随分カドが取れて、太子と共に「天皇記」「国記」などの歴史書を編纂しています。馬子は彼女にとって母方の叔父でしたが、彼が領地の無心をした際に、公の論理をもってしっかり断るなど、はっきりモノが言えたようです。

結果として飛鳥文化が花開き、その後の政治制度の元になる法律や外交も整いました。さらに寄り集まりだった大和政権は、豪族同士の争いも起こらず、初めて磐石の基盤をすえたのです。若き人材と、荒っぽい実力者を束ねるような人徳を持っていた女性だったのです。彼女の政権は36年も続いて、75歳で天寿を全うしました。