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刑務所の脱獄と教育
吉村昭「破獄」を読みました。以前、緒方拳主演でNHKのドラマになったこともあります。
昭和戦前~戦後に掛けて厳重な警備の刑務所を4回脱獄した男のすさまじい一代記です。その方法は…
1、昭和11年 青森刑務所脱獄:入浴用具の金具を獄房の合鍵に加工。
2、昭和17年 秋田刑務所脱獄:小さくて天井の高い鎮静房という獄舎で、手のひらと足裏を両生類のヤモリのように、獄舎の対になった両方の壁に押し付けて壁面を登り、天井窓を割って外に出る。
3、昭和19年 網走刑務所脱獄:食事の味噌汁の塩分で特製手錠の鍵穴と獄房の鉄窓の目釘を腐食させて緩ませて逃げる。
4、昭和22年 札幌刑務所脱獄:床板を切って地下から逃走。
監視できなかったのか?と思いましたが、この男は看守に「こんな獄舎はすぐに破ってみせる。。あんたが当直の時に逃げてみましょうか?」などと、これまでの脱獄「実績」を強調して心理的に脅して、監視を厭う雰囲気を作っていました。とにかく、脱獄のプロです。
札幌刑務所を脱獄し、捕まってからは、東京の府中刑務所に、特別車両を借り切って移されました。その後は脱獄せず、昭和36年、仮釈放になりました。関心を持ったのは、この脱獄常習犯を府中刑務所でいかにして模範囚にしたか、という点です。
彼は犯罪を犯す前は家庭を持つ自営業、出所後は日雇労務者で、勤勉な働きで建設会社から入社をすすめられたりしましたが、自由の身でありたいという希望で断りました。要するに社長クラスの知能の高い人物だったようです。
脱獄の理由は北の過酷な気候の他、看守の監視の厳しく、冷たい扱いも原因にありました。監視の厳しい看守の当番の日の晩に逃げるということもやっています。それを知った府中刑務所の所長は、基本的に監視や扱いを緩める温情主義で行き、成功しました。
むろん、懲罰刑から教育刑に移行した行刑制度、第2次大戦の戦中・戦後の混乱期から高度成長に向かう時代の流れという社会背景もあったでしょう。またこの男の年齢や個人的事情も脱獄をあきらめる原因になったかも知れません。
ここで思い出すのが、人材育成法のコーチングです。人材を育てるのに、脅しつけるよりも、相手の「気付き」を促すというやり方です。この本での温情主義というのは単なる甘やかせではなく、周りは敵でない、人間として受け入れているということをこの脱獄のプロに分からせるよう仕向けるという意味です。
新入社員にはティーチング(一方的に命令し、教えること)で良いのですが、即戦力を前提に、これまでの各人の蓄積を生かした人材育成法をとる場合、ティーチングではうまくいかなくなっています。「社員教育」というよりも、社員と共同してある目標を作り上げる、という視点が不可欠になっています。もし一方的に会社の意思を押し付けるものだと「脱獄」してしまいます。
会社を監獄にたとえるのは変ですが、この「破獄」は「脱獄」しない模範囚にするにはどうしたら良いか、という示唆を与えてくれるような気がします。