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源頼朝の人事術

いうまでもなく、鎌倉幕府を開いた人物です。史上初の武家政権、どんな方針で固めていったのでしょうか。

1、天皇家とは違う政権をアピールする。
2、家来を大事にするが、反抗すれば容赦なく滅ぼす。
3、近い身内は殺してしまうが、少し遠い身内は優遇。
4、独自の組織を持つが、京都に負けないものを作る。

頼朝はもともと貴公子の出ですが、父親が裏切りで殺され、兄弟も敗者ゆえに悲惨な最期を遂げました。従って、上の方針に付きまとうものは「猜疑心」です。その暗さが源氏の将軍が3代でいなくなり、北条氏の幕府になる原因になりました。しかし、武家の政権はその後600年以上、日本に根を下ろしたのです。

4つの方針がどう推移したかというと、

まず、京都から遠い鎌倉に本拠を開いたのが、良いところでした。まだ貴族にコンプレックスを持っていた武士団に、俺等が棟梁!という意識を与えたのは良いことでした。今までの武家のボスは「京都のサルマネ」ですから、どうしてもトップにはなれません。それなら独立してトップになってやろうという気概が武士団をひきつけたのです。

まだまだ平氏に対して挙兵した弱小の頃に味方した有力武士団は、その後頼朝が勢力を増大する中で優遇されました。しかし、粛清されたものもいます。
○梶原景時 : 同僚を密告して、逆に嫌われ、討たれた。
○上総広常 : 「オレのおかげで命が救われた」と恩着せがましかったので、暗殺された。

実に分かりやすいやり方です。

また、身内に関しては、有名な義経や、同じ弟の範頼、叔父の行家などは、理由をつけて殺されたり、追放されました。しかし後の足利幕府の元となった一族や、100年後、鎌倉幕府を滅ぼした新田氏などは遠い親戚なので頼朝の地位を脅かさないと考えたのでしょう。本領を安堵されたりして、力を蓄えました。

幕府は頼朝死後20数年で跡継ぎがいなくなり、北条氏に権力を奪われました。徳川幕府はこれと反対で、身内を優遇し、200年以上の命脈を得ました。

また、京都と違いシンプルで分かり易い組織を作りました。しかし今日の国会たる政所や、裁判所たる問注所には、法律の専門家を持ってこなくてはなりません。こればかりは京都から貴族を呼んで作ってもらいました。

全体にオリジナリティーはあったのですが、頼朝のコンプレックスが、彼の直系を絶やしたというところでしょうか。しかし京都とは全く違う、権力闘争がまともに出る実力本意の政権を作ったのはその後、日本の発展に大いに寄与したことは言うまでもないことです。