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山椒大夫の労務管理(下)

森鴎外の歴史小説、「山椒大夫」にまつわる当時の労務管理の話の続きです。

★『上も下も酒を飲んで、奴の小屋には諍いが起るだけである。常は諍いをすると、きびしく罰せられるのに、こういうときは奴頭が大目に見る。血を流しても知らぬ顔をしていることがある。どうかすると、殺されたものがあっても構わぬのである。』

お正月の話です。これはガス抜きですね。労働のストレスが貯まってそれが一揆になって社長に向かわないようにと、見て見ぬフリをする掟破りです。明文化されないインフォーマルなルールと言えましょう。

酒が入ってですら争いをしてはならないとしたら、内で爆発しないストレスは外へ向けられることを山椒大夫は知っていたのかも知れません。その怖さに比べれば貴重な労働力が1つや2つ失われてもしょうがない、そう考えたのでしょう。

★『そんなら垣衣を大童にして山へやれとおっしゃった。大夫様は、よい思いつきじゃとお笑いなされた。そこでわしはお前さんの髪をもろうて往かねばならぬ』

これはいわゆる「主任」の発言です。垣衣と書いて「しのぶぐさ」と読みます。名を名乗らない姉の安寿に山椒大夫が付けた名です。大童とはショートヘアのことでしょう。安寿は厨子王の逃亡の手助けをするために、海の潮汲みから山の柴刈りへの配置転換を願い出たのです。

異例の願い出だったと見えて、「主任」は対価を要求したのです。当時の女性は百人一首の絵など見るように、14歳でも髪が長かったのでしょう。しかも「髪は女の命」のようなものだったと思います。現在でも配転を願い出るのは勇気が要りますが、当時でもそうだったのでしょう。

山椒大夫が笑ったのは、配転を願い出た従業員への「許可の手数料」を取れたことに対する満足感だったのかも知れません。

★『金で買った婢をあの人たちは殺しはしません。多分お前がいなくなったら、わたしを二人前働かせようとするでしょう。』

いよいよ厨子王を逃亡させようとする安寿の決死の策の告白です。じゃあ姉さんはどうするのか。ヒデエ目に遭うよと厨子王が聞いた安寿の答えです。

まあ逃亡の企てで焼きごてを当てるくらいですから、半殺しくらいの目には遭うでしょうね。正に目的のためには手段を選ばずに、安寿は身を犠牲にして目的を達しようとしたのです。今では強制労働の禁止など、法にはうたってありますが、今のヒトでも追い詰められれば、決死行に出ないとも限りません。

★『丹後一国で人の売り買いを禁じた。そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠の業も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。』

結局話はハッピーエンドに終わり、厨子王は奴隷だったのがトップになり、善政を敷きます。しかし奴隷よりは、収入を保証された労働者を使うほうが、能率が良いということです。一時は損失に思ったようなことが、案外長期的に大きな利益を生むということを鴎外は言いたかったのでしょう。

鴎外は決して資本家=搾取=悪という図式でものを見ていません。過酷な労働はどの時代でも同じですが、ごく稀にある善人との出会いと、その間を埋める信心が大事だよと教えています。
(完)