« 定年制廃止の代償 | メイン | 残業対策の本質 »

昔の人事異動の苦労

永沼秀文という名の騎兵将校のハナシです。騎兵とは馬に乗って迅速に動く、戦車登場以前の機動兵器を扱う兵種です。いわゆる「馬乗りの身分」とは違う、馬を機動力とした近代戦の構築を日本が始めた、明治28年のお話です。

彼は大尉(結構上級の士官)になって、騎兵中隊長に赴任しました。彼はそれまでは官庁の事務職が長く、実際の軍事を司る司令官は荷が重かったようです。デスクワークからいきなり野戦指揮官になって、兵士に命令を下して動かし、軍事目的を達成する任務になったのです。

演習といえども、生身の人間を動かすのは、書類仕事と違ってホネが折れたでしょう。厳しい戦術訓練に即応できず、大隊長(上官)の秋山好古中佐には散々叱責されたようです。

しかも「不動の姿勢がなっとらん!」などと、軍人の初歩レベルで衆目の前で叱責されたりしたそうです。そこに追い討ちを掛けるように、指揮の不手際で部下に負傷させてしまいました。

当時のサムライは責任感が強いです。永沼大尉は自決するつもりで上司のもとを訪ねました。

秋山中佐は永沼大尉の報告を聞き終わると、このように言ったそうです。
「人間として、ことに軍人は、常に腹を切るだけの覚悟は持っていなければいけんよ」
「しかし実際に腹を切ってしまっては、実も花もなくなる。そこをじっと忍耐する。そうした極致を何度も繰り返していくとき、人間は修養も向上もできるのだ」
「おまいも軍人なら命を惜しめ。命は1つじゃ。そこを忘れてはいけんぞな」
「わしが淹れた茶を飲んでいかんか。茶を飲んだら中隊へ戻って指揮を執るんじゃ。ええな。」(秋山好古は伊予松山のヒト。「~ぞな」は松山弁)

永沼大尉は自決を思いとどまったそうです。彼はその後大いに騎兵の専門家として成長しました。10年後の日露戦争で、「永沼挺身隊」は騎兵の本領を発揮して、素早く敵陣深く活動して勇名を馳せ、鉄道爆破や補給拠点の襲撃をもってロシア軍の後方を脅かし、日本軍の勝利に重大な貢献をしました。

この説得で重要なのは、
1、責任は重いということ。
2、しかし、取り返しの付かない取り方はしない。
3、修養と向上が第一である。
ということを教えた点です。

「自決するな」という直接的な命令でなく、また本人の分かっている罪科には一言も触れないところは、モノの言い方として学ぶべきところです。

時代の移り変わりが激しく、新しい仕事に転じることの多い社員にとっては失敗もつき物でしょう。失敗をさせないためにはどう教えればよいか、特に中途採用の人間を教えるにはどうすればよいか、考えさせられるエピソードです。