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俳人の後継者選び

松山や秋より高き天守閣  柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

愛媛県は松山出身の俳人、正岡子規の句です。筆者は中学生時代「子規研究クラブ」に所属していまして、多少造詣がありました。司馬遼太郎が明治最大の教育家としている人物です。では一般人にはなじみにくい、子規の教育の成果とはどんなものだったでしょうか?

江戸時代は俳句は金持ちの道楽と思われていました。落書き程度の遊びではあっても、芸術ではなかったのです。無論松尾芭蕉や小林一茶などの名人はいましたが、明治に入ると文明開化の波も手伝って、芸術としての俳句はすっかり衰退していました。

それを引き上げたのが子規です。意味のない虚飾を廃し、見たものそのままを読む「写生」を主張し、格調高い芸術の域に高めるまで考証しました。35歳で病没した子規の思想を継ぐ実力者が2人いました。

1人は高浜虚子で、「写生」はあくまで五・七・五で行うべきだと主張し、自然界・人間界の現象を無心に詠うもので、当然季語も入るという句風です。

もう1人は河東碧梧桐(へきごとう)の「新傾向俳句」で、見たものそのままなら五・七・五も季語もいらないじゃないかという句風です。例えば、新傾向俳句の代表的俳人、種田山頭火の句、

傘も漏りだしたか

これも歴史に残る名句です。

しかしその後栄え、現在に残るのは虚子の正統派の方です。自由に感じたままを読むといっても余りにも自由過ぎて俳句が俳句でなくなってしまうという感じではなかったでしょうか。

自由といっても、やっぱりある程度カタのはまった自由の方が、人々の支持を集めやすいことが分かります。偉大な創業者が残した革新的で自由な風に、ある程度のカタをはめて良い所を残すのが後継者のひとつの役割であり、組織を永続させるものではないかと思います。