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”鬼平犯科帳”の世界

今日初めて池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」を読みました、といっても、さいとう・たかをの劇画です。立ち読みでパラパラと見た感じではどうも退屈だなという印象があったのですが、読んでみると登場人物が多く、人情に起伏があり、読み応えがありました。

人情に起伏があるというのは、淡々と物事が展開しないということですが、人の感情は江戸時代も今も変わりないということです。そしてその感情に基づく出来事もまた、現代と置き換えて考えることが可能です。インターネットのない分、昔は人と人とのコミュニケーションが濃厚で、口コミが電波の如く広まる、という感じです。しかし、当然違うところもあります。

現代との違いは、身分制の存在でしょうか。主人公の長谷川平蔵は江戸中期に実在の人物で、50歳くらいまで生きたようです。遠山の金さんに似て、「若い間は遊び人♪今は立派な奉行様」で、下々の人情に通じています。剣の達人で、時には悪党と斬り合いもします。

しかし基本的には立てられる人であり、人格的にも立派な人なのですね。水戸黄門もそうですが、誰もがひれ伏す「権威」のある時代だったのです。そりゃある程度美化されもしたでしょうが、そういう欠点は隠されるのではなく、下々のものが許す形になっているところが興味深いところです。

つまり、「権威」を社会が作って、それを拠り所として秩序が動く、そんな感じです。「権威」は秩序そのものであって、よほどのことがないとケチを付けるものではないのです。一方的な生まれつきの専制君主がいたわけではないのです。

偉い人は下々の大衆、部下はもちろん、近所の商家のダンナや隠居も含めた地域社会が作っていたのです。江戸時代の身分制社会が二百何十年も続いたのは、身分の矛盾はあっても、平和を多くの人々が望んだせいでしょう。

武士が威張って農民が搾取された、そんな単純な図式ではなく、農民も武士の権威付けを担っていた、というところに鬼平や金さん、暴れん坊将軍や水戸黄門の面白さがあります。真に頼れる管理者とは、実は社会と仲の良い人、つまり立てられるほどの徳を集団から与えられる人のような気がします。