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藤堂高虎の人事

伊賀・伊勢(現在の三重・奈良県)の大名だった殿様です。戦国時代の人で、無名の頃から転々と主君を変えましたが、戦のごとに手柄を立て、信長・秀吉・家康などの権力者に好かれました。最終的に京都に近い良い立地の大名に落ち着き、明治まで続いています。

英雄豪傑というより、戦国時代を巧みに生きた「処世術」の天才として語られることの多い人物です。

高虎は殿様になっても逸話を残しました。家康が死ぬときに「いつ眠るのか」というほど献身的な看病をして、「高虎は外様(徳川家の親戚筋でも家来筋でもない)だが、絶対反乱を起こすことはない」という位の信用を得ました。

また、もともと高虎の居城は伊賀上野という内陸部にありました。しかし高虎は、「これからは海に開いた交易の時代だ」と言って、海岸の津(三重県の県庁所在地)に城を構えました。その結果、内陸航路の拠点として栄えるもととなりました。

しかし何といっても、面白いのは次の逸話です。

不祥事を起こした家来が5人出ました。罪状は身上を潰してスッカラカンになっちゃった、というものですが、その動機は違うものでした。3人は博打で、もう2人は女に貢いでというものです。高虎は博打の方は軽い処分にとどめ、貢いだ方は追放しました。

その理由は、「博打で全財産失う方は、まだ相手に勝とうという覇気があり、用いる甲斐がある、しかし女にたぶらかされているようなものは何の取り柄もない」というものです。

現在ならどうでしょう?女性の心を知らないと商売にならない、という時代には合わないでしょうか?高虎の処世術は、たとえ疑われようと誠心誠意努めるということです。家康も最初は「縁者でもないのに」と、疑っていましたが、その誠意が10年20年と続くと最高評価にならざるを得ないのです。

高虎が死んで二百数十年後、徳川幕府の危機に際し「藤堂家と井伊家を先陣に出すべし」との家康の遺言に従って、藤堂家は薩長軍と戦う鳥羽・伏見の戦いの先陣に立ちました。しかし藤堂家は戦半ば、幕府軍を裏切って、新撰組、会津藩の軍勢に砲弾の雨を降らし、いわば明治維新の先駆けをなしました。

徳川家に忠誠を尽くすのではなく、「時代に付き、忠誠を尽くせ」というのが、高虎の暗黙の家訓だったのかもしれません。