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江戸時代のワークシェアリング

愛知県に松平定政という殿様がいました。徳川家康の異父弟の子でしたので、甥っ子ということになります。その殿様がある日、こんなことを言い出しました。

○ 私の領地は2万石であるが、これをお上に返上する。
○ 私は1人で2万石をもらっているが、1,000石なら20人、100石なら200人、5石なら4,000人に分け与えることが可能である。
○ 私一人で4,000人分の働きをするわけにはいかないのだから、ぜひ返上した領地は4,000人分に分け与えて欲しい。

こう言って定政は長男とともに出家してしまいました。つまり、大会社の創設者の一族が、私は辞めるから、その給料で新しい人を雇ってほしいといったのです。この提案に対して、当時の幕府はどう対処したでしょうか?

当然2万石は没収、つまりお取り潰しですね。定政自身は「気が狂った」とされ、兄弟の藩にお預けになりました。幕府の政治を批判し、突拍子もない行動に出たから、こういう処分に出たのです。

当時の幕府は3代将軍家光が亡くなったばかりでした。幕府の基礎が固まった時期です。反乱を起こしそうな戦国時代以来の大名が多く取り潰され、その家来は収入を失いました。その結果、「浪人」によって治安の悪化が取りざたされ、定政は心を痛めたのです。

だから、幕政の批判ということで、家康の甥っ子といえども、容赦しなかったのですね。しかし幕府は浪人そのものに対する施策はなかったものの、浪人を出さないようにする対策をしました。「末期養子の禁の緩和」で、跡継ぎのない殿様が死ぬ間際に養子を迎えるのを許すというものが代表的です。

この後、浪人の反乱未遂事件もあり、「容赦なく取り潰す!」という武断政治から、「穏やかにやろうよ」という文治政治に転換した効果がありました。社会の安定とともに、浪人問題も終息していったのですが、浪人の再就職のあっせんよりも、その元の会社たる「藩」が潰れないようにする対策をしているところが興味深いですね。