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女遊びに奥さんを呼ぶ革命児
司馬遼太郎の小説を読むと、長州の革命児、高杉晋作や越後長岡藩家老、河井継之助といった主人公が、奥さんを芸妓遊びに連れ出すシーンがあります。
奥さんは才色兼備の立派な武家の妻で、奔放な主人公の後ろをしっかり守る、悪く言えば「遊び人亭主」に放って置かれる立場でした。この不器用な「奥さん操縦術」はどういう効果があったものでしょうか?
今こんなことをすれば、昨今の女性はどう思うでしょうか?「何ということを!言語道断!すぐ離婚だ!」と抗議すると思うでしょうか?
意外に淡々としているんですね。晋作の妻は「全く飽き飽きしてしまいました」と言っているし、継之助の妻は「どこが面白いのでしょう」と言っています。
しかしそんなことを言いながら意外に亭主を理解しているんですね。無論当時の道徳や雰囲気もあったでしょうし、彼女等の聡明さもあったでしょう。しかしヒスは起こさないのです。
なぜか?自分のために必死で楽しませようというダンナの姿勢が見えるからなのです。負い目を感じて自分のはらわたまで見せられると、どうもそこを追い詰めようという気には確かになりません。
今は幕末に比べると娯楽はいくらでもあります。しかし価値観の違いをどこまで認め合っているかどうか、その辺りは百数十年前から進歩どころか、むしろ退歩しているように見えないでもないです。筆者も言われることですが、どうも今は考えすぎですね。
しっかりと相手のことを思う、これだけで十分のコミュニケーションに結果としてなるのです。価値観の共有より違いをどこまで認められるか、そこがチームワークを生み出す原点のような気がします。
共有したつもりでも違いがどうしても出てくる、という状況より、違いを認めてギクシャクを承知の上で、おっ!分かり合える部分もあった!という方が何か良いような気がしますね。