« 政治家の人事 | メイン | ニート対策になにができるか? »

「常紋トンネル」を読んで

北海道の北の果てにあるという以外、何の変哲もない鉄道トンネルです。ただ近くの信号場はスイッチバック(一旦引込み線に入って入線する)なので、相当な急勾配区間です。蒸気機関車の時代も、また今でもこの区間はもう1両機関車を加えて走ります。

問題は、このトンネルの改修工事の際、立ったまま埋められた骸骨が発見されたという事実です。これは明治以来の過酷なタコ部屋労働の血塗られた歴史の証拠です。つまり、鈍器で殴って気絶したところをトンネルの壁面に塗り固めて、数十年後…

おお!やめましょう!(ホラーや残酷シーン弱いのです)残酷シーンは本書に譲るとして、気になったのは現在「労働者に甘すぎる」とされる労働基準法との関連です。

いわゆる昔のタコ部屋労働と現在の関連を整理すると…

1、タコ部屋労働は制度的な慣習として今でも大都会の片隅に存在する。
2、労働者自身、「弱きは死ね」という過酷な制度に慣れてしまう、悲しい存在である。
3、学歴、素行の問題でタコ部屋労働者が生産されたのではない。だまされて連れてこられた人が多い。
4、その思想は今でも日本の労務慣習全般の中に生きている。

考えてみれば、現在の成果主義人事制度も、タコ部屋労働制度といえなくもないです。タコとは他雇(他人に雇われる)という意味に、海の軟体動物のタコが、餓えると自分の足を食って生きるという意味もあります。

他人を蹴落として成果を上げるのは「成果」で、他人の成果をアシストするのは「成果」でないのか?日本の成果主義人事制度が失敗した原因は正にここにあり、タコ部屋労働制度が結局戦後まで堂々と残った原因もここにあります。隣で働く奴が死のうが殺されようが「成果」には関係ないよ、ということです。

現在の過労死や自殺、家庭崩壊していく悲劇に使用者の残酷さもさることながら、労働者の慣れや無知が関与している現実は現在でも否定できないでしょう。

労働者に甘すぎる労働基準法は、確かに多くの事業主を不幸にする側面があります。しかしタコ部屋労働に代表される余りに残酷な歴史は、「将来においてまた繰り返さない保証はないだろ?」と我々に問うているように思えてならないのです。人間、いくらでも残酷になれる、とは誰の言葉だったか?