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今のところ最後の女性天皇

日本の歴史上、女性のトップは多々存在し、天皇にもいました。史上最初の女性天皇、推古天皇は日本最高の女性上司だと私は思いますが、最後の女性天皇も歴史に隠れた傑物だったようです。

後桜町天皇のことです。江戸時代のほぼ真ん中に生きた方で、先代の男性天皇が若死にしたため、ワンポイントリリーフとして登板した天皇といわれています。当時でも119年振りの女帝誕生です。しかしこの女性、本当に「つなぎ」のヒトだったのでしょうか。

22歳で即位し、31歳で幼かった先代天皇の皇子に譲位し、「上皇」となりました。しかしこの即位した皇子(後桃園天皇)も若死にし、傍系の男性天皇(光格天皇)になりました。この天皇は幕府に圧しつぶされていた朝廷の権威を復興しようとした人物だったのです。光格天皇の死後27年で明治維新になりましたが、そのパワーの源、尊王論の下地にはこの「やる気のある天皇」の努力がありました。

この光格天皇の教育をしたと言われているのが、彼が9歳で即位してから42歳まで生きていた後桜町上皇だったのです。

彼女は非常に学問好きな女性でした。73年の生涯のうちに作った和歌1600首あまりと20年以上にわたる日記が残されています。

彼女が21歳で即位する5年前、江戸幕府によるはじめての勤王論の弾圧事件がありました。宝暦事件といって、日本書紀などに基づく勤王論を説いていた神道家の竹内式部が弾圧された事件です。彼は若手公卿に非常に高い支持を得ており、後桜町天皇の先代天皇自身に講義したこともあったといいます。

そして彼女の即位後、1766年には第2の勤王派弾圧事件である明和事件が起き、尊王的な歴史を説いていた山県大弐・藤井右門らが処刑されています。思想くらいで残酷なようですが当然でしょう。当時は幕府権力絶対でした。

こういう事件が当時、10代後半~20代の学問好きな女性の思想に影響を与えなかったとはいい切れないでしょう。譲位後、彼女は次の天皇、また次の天皇と熱心に教育をしました。

江戸幕府は「天皇・公家は学問だけしていれば良い」としましたが、その学問に尊王論も含まれていたのです。それが光格天皇の天皇家建て直しにつながり、幕末の尊王・攘夷運動のパワーとなって時代を旋回したのです。

最初の女性天皇たる推古天皇のように、決して自分自身の事績は出さないが、裏でちゃんとコツコツと能力を発揮する、そんな感じの女性が、遠回しに時代を作るもとになった、とは大げさでしょうか。