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100年後の人々のために

明治時代の外相、陸奥宗光のことです。彼の仕事のモチベーションはどういうものだったか考えてみました。

彼は、江戸幕府が結んだ不平等条約を改正すること、日本史で習うところの「条約改正」に手腕を振るった幕末志士の生き残りです。外交の他に、例の足尾銅山鉱毒事件を無視した”悪人”として知られています。

今だから評価の高い条約改正も、当時は評判が悪かったのです。なにしろ、「外国人が日本全土を自由に往来し、商売できる」ことと引き換えに条約改正を行おうとしていたのですから。まだ残っていた”攘夷”運動の極端なナショナリストの恨みを買わないはずがありません。

また、足尾鉱毒事件は、公害対策をしませんでした。宗光の息子が足尾銅山の経営者の養子になっていたことも相まって、大変な非難を後世にわたって受け続けました。同じ頃、公害対策をした鉱山があったのにも関わらず、です。

ではなぜ、宗光は世論の非難を一身に浴びて、そういう政策を通したのか?

答えは”100年後の人々のため”です。外国人を入れることについての宗光の言い分は…

「たとえ外国人が入っても日本は乗っ取られはしない。多くの民が、女子供も含めて今よりもっともっと苦しみながら働くからな」

当時の日本は今日では想像の付かない貧乏国でした。足尾銅山で産出された銅は生糸とともに外貨獲得のための重要な資源でした。しかし、ご存知の通り、山も川も荒れ果て、悪い病も流行り、日本最初の公害問題としてクローズアップされました。鉱毒に苦しむ人々については…

「今苦しんでいる民に安楽の日が来ることはない。100年後の人々のために苦しんでくれ。貴様たちも、私も、我々の一生は血を吐き、苦しみ続け、死ぬだけだ」

宗光の究極の目標は…

「しかし、我々が死んだ後、我々の子や孫の時代には、植民地とされず、西洋と肩を並べる日本、そしてアジアが存在するはずだ」です。

宗光死後、100年後の我々はどうでしょうか?宗光の理想は半ば達成されたものの、「100年後の人々のために」といえる政治家や経営者、さらに一般市民がいるでしょうか?財政問題に環境問題、「100年後の人々のために」解決すべき問題は、むしろ増えたような気がします。