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セクハラの根源(下)

自己崩壊を食い止めるために行動に出るのは良いのですが、その行動の厄介さは、「他人の犠牲を厭わない」という点にあります。自らの崩壊から目を背けて、一時的な快楽に逃避するとき、他人に苦痛を転嫁する卑劣さに気付いていないことが多いのです。

例えば度重なるセクハラで告発された男の言い分はこうです。
「なぜ、その程度で大騒ぎするのか」
「成り行きで」
「合意だと思った」

共通点は相手の心理への洞察力のなさと、情緒的な点にあります。情緒的というのは良い意味ではありません。証拠も何もなくなるわけですから、これほど良い言い訳はないわけです。

従って、これから男性がなしていかねばならないことは、

○男性は1人残らず性的にだらしがなく、理性のかけらもない動物であることを自覚する。
○セクハラはそういう男性の改善が求められている問題である。従って、その”衝動”には説明責任が伴う。
という感覚の反省です。

この2つを自覚すれば、性的衝動の抑止力になり、相手が嫌がっていること、困っていることの認識が出来てくると思います。女性に向ける性的な視線と関心から、とんでもない結末を迎える、そのギャップをどう説明するのか考えなければなりません。

生物的な「性差」と社会的・文化的な「性差」とは違うものです。このうち問題は社会的・文化的な「性差」から来るものです。これは様々な思い込みや身勝手な幻想を作り出す元になります。

この社会・文化的性差に結論を出すことが、少子化対策にも重要なことではないでしょうか。男の崩壊は”男らしさ””女らしさ”を改めて問うてみることで、解決されます。しかもその結論は古来のものでは行き詰ることはこれまでの事例で明らかです。

この現代にあって”男性の生き方”を問うことは、女性の解放よりもむしろ急務です。女性がいくら解放されても、男性が社会的な”男らしさ”から開放されないと、男女間の悲劇はなくなりませんし、女性がラクにならないと男性もラクにならないのです。
(完)