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仕事をすればいいというものじゃない

本日、職務時間に出会い系サイトにはまって、千数百件のメールをやり取りしていた男性が解雇されたことは妥当であると、至極まっとうな高等裁判所の判決が出ました。

出会い系サイトで解雇は妥当

この裁判でのこの男性の反論は、「仕事に支障をきたしたわけじゃない」ということです。しかしこれが100%真実だとしても、この男性は解雇の運命を免れることはできなかったでしょう。

職場というのは、分かり易く言えばみんなの共同体です。個人が成果さえ出していれば後は自由かどうかは社風にもよりますが、基本的に「仕事とはみんなでやるもの」だと思います。

営業マンが大きな契約を取ったとしても、その営業マンの功績のみでしょうか?

その営業マンをフォローした管理職は?お茶を出したり、資料のコピーを取ってくれたりした一般職員はどうでしょう?また、営業マンのモチベーションとなった「やる気」の元となった社風やそれを造るために努力した経営陣の努力は?「がんばれよ」と声を掛けた同僚は?…考えるとその営業マンの功績を支えた人は社内だけですらいくらでも出てきます。

しかもそれらの人々はその営業マンに自分の「功績」を主張しようとは余り思わないでしょう。そこが日本の労務慣習のいいところだと思います。

だからこの男性の場合、逆ですね。いいことはすべての人にフォローされますが、悪いことはすべての人に伝染します。遊びごとをこっそりやったとしても、社内なら誰もが知らないというわけにいかないでしょう。実際バレなかったとしても、まじめな社風を本人の自覚がないまでも汚しているという点で、この男性は重罪です。職務専念義務違反とか、出会い系に費やすエネルギーを職務に注げば…ということは枝葉末節に思えます。遊びごとをやるなら帰宅してからやればいいのです。

この判決は「仕事をしていれば、あとは個人の自由」を履き違えるとこういうことになる、という警告のように思えます。

それにしても、日本人の集団帰属意識の基盤だった「まじめさ」はどこへ行ったのでしょうか?「まじめ」が悪口に使われるようになったと同時に日本経済の凋落が始まったのは偶然でしょうか?

ただ一昔前までは悪口に近い響きがあった「まじめ」が、最近はやや肯定的な響きを持つようになってきたのは良いことです。人に向かって「まじめまじめ」と連発する方が、悪口を言っているんだけれども、ちょっとした賞賛もあるんだよ、という矛盾を抱えて複雑なニュアンスになるのは、見ていてちょっと面白いですね。