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規則のための処分か、処分のための規則か
「解雇厳しすぎる」と抗議が殺到した 東武鉄道の子連れ乗務の話です。
自分の子供を4分間、運転室に入れた父親の運転士の話です。「安全運行が使命の鉄道会社で、第三者を運転室に入れることは、危険を誘発しかねない規則違反」として、懲戒解雇になったようです。
昨今は公共機関の”たるんだような規則違反”が多い現状では、規則をちゃんと守らせるべしという論調が多いのも確かでしょう。鉄道会社の措置は理にかなっており、世間的にも受け入れられるべきものでしょう。
ではなぜこういう抗議が殺到したのでしょうか?抗議をした人々は全て”規則の何たるかを知らない無軌道人間”なのでしょうか?
私は違うと思います。「法律があるといっても、こりゃ厳しすぎなんじゃないの?」というわけです。法律の尊さを知った上で現実的な診断を求めたのです。運転士を弁護するところは、
1、運転士の情ではなく、子供のわがままである。
2、それを許したのは重罪ではあるが、ある程度の罰を経て、以後改めれば済む問題で、運転士としての資質に関わる問題ではない。
3、子供に対して親がクビになったという負い目を負わせることになる。子供のわがままを看過するのか、というが、人間的に完成されていない子供に秩序意識を求めるのは困難。
といったところでしょう。日本のファジーな、あいまいさを許す心は、今の価値観の多様化には大いに合っているのです。法律を厳格に適用すれば、いざというときに対処できないマニュアル人間を作り、不満が多くなります。○○王の圧政みたいなもんですね。法律を厳格に適用すればいいのなら、裁判所も裁判官も要らないでしょう。
みせしめとか、安全喚起というならもっと良い方法があると思います。規則を守るために処分するのではなく、処分する方法論としての規則でありたいですね。つまり、この場合、「本来なら規則に照らして免職ものだが、情状に照らして罪一等を減じる。以後気をつけて勤務するように」という風にするのです。
いわゆる「懲罰としての刑罰」でなく、「教育としての刑罰」を与えるのです。恐怖を与えるやり方は今ははやりません。教育してこそ、世の中良く方向に行くと思います。